第39話 無能力サポート、最強配信者と区外へ行く
「何だかんだで、マリーはなんでもできそうですよね」
円卓会議から、一週間ほどが過ぎていた。
徹の左肩にはまだ鈍い痛みが残っている。それでも、日常生活や軽い作業なら問題なくこなせる程度には治っていた。
配信終了後の集合区画で、徹は撮影用ドローンをケースへ収めた。
マリーの手が、機材ケースへ伸びる。
だが、途中で止まった。
そのまま何事もなかったように手を引き、今日使った経費のレシートをまとめ始める。
「何よ、急に」
「いや。経費のこと、最初は何も知らなかったのに、今はもうちゃんと理解してるじゃないですか」
マリーの手元には、何枚かのレシートがある。
飲料水。
行動食。
配信用バッテリー。
それぞれに小さな付箋が貼られ、用途まで書き込まれていた。
『攻略配信・消耗品』
『撮影機材用』
『トオルの食事』
「最後のは経費になるか確認してから出してください」
「仕事中に食べたんだから、経費でしょう?」
「その理屈で何でも通そうとするのはやめてください」
「でも、前は付箋なんて貼ってなかったでしょう」
「だから褒めてるんです。勉強熱心ですよね」
マリーの手が止まった。
白銀の睫毛が、ほんの少し上がる。
それから彼女は、当然のように胸を張った。
「当然よ。天使に不可能はないわ」
◇
「――というわけで、今日は豊洲の職業体験施設へ行くぞ」
翌朝。
北高校の体育館に、一・二年生が集められていた。
壇上に立つ教師が、マイクを片手に説明を続けている。
「事前に説明したとおり、行動班はクラス単位だ。施設内の自由行動中は、別の班や学年と一緒に回っても構わない。ただし、点呼の時間には必ず元の班へ戻ること。聞いてない奴はいないな?」
生徒たちから、まばらな返事が上がる。
綾瀬茉莉は、動きを止めていた。
(……はじめて聞いた)
豊洲。
職業体験。
自由行動。
どの言葉にも、まったく覚えがない。
教師は「事前に説明した」と言った。
おそらく、説明はされていたのだろう。
茉莉が寝ている間に。
「飲食系とかあるらしいぞ」
少し前に座っていた誠が、徹へ話しかけている。
「整備の体験もあるってさ。機械を分解したりすんのかな」
「壊すなよ」
「壊さねえよ。俺を何だと思ってんだ」
「この前、配信ドローンを修理しようとして、部品を余らせた奴」
「あれは余ったんじゃない。予備だ」
「外した部品だろ」
周囲から笑いが起こる。
体育館の後方から、元気な声が飛んできた。
「トオル先輩! マコト先輩!」
一年生の列から、笑美が顔を出していた。
「お、エミ。お前は何をやるんだ?」
「まだ決めてません! でも、すごいのがいいです!」
「全部職業体験なんだから、たぶん全部すごいだろ」
「じゃあ全部です!」
「一日で回れるか?」
誠と笑美は、もう今日を楽しみ始めている。
徹も、ごく自然に笑美を「エミ」と呼んでいた。
三人とも、第十一層へ落ちる前より、ほんの少しだけ近くなっている。
茉莉は手元の案内冊子を開いた。
ページをめくる。
見た覚えのない施設案内が、次々に出てきた。
隣にいた徹が、その様子へ気づく。
「綾瀬」
「……何」
「案内、逆さまだぞ」
茉莉は冊子を見た。
上下が逆だった。
黙って持ち直す。
「大丈夫か?」
「……起きたばかりだから」
「集合してからずっと起きてただろ」
「まだ、半分くらい寝てる」
「器用だな」
徹はそれ以上追及せず、前へ向き直った。
茉莉は、もう一度案内冊子へ目を落とす。
表紙には、大きく今日の日付が印刷されていた。
夢ではないらしい。
◇
学校を出た生徒たちは、大ゲートへ向かった。
徹がゲートの外へ出るのは、ダンジョン区へ移住してきた日以来だった。
巨大な門を抜ける。
景色が変わった。
空がある。
第一層の天井に再現された空ではない。
建物の間を切り取る、本物の空だった。
能力使用に対応した標識もなければ、攻略者向けの装備店もない。大剣や杖を背負って歩く人間もいなかった。
「やっぱ、外に出ると変な感じするな」
誠が自分の手を開いた。
「風が出せないから?」
「そりゃな。区外には魔素がないだろ。能力が使えないって、体の一部を置いてきたみたいでさ」
「俺は中でも使えないから、違いが分からん」
「そういやそうだった」
誠が苦笑する。
徹にとっては、むしろこちらの方が普通だった。
二か月前まで暮らしていた千葉にも、能力使用を前提とした設備などなかった。
何もできなくなった誠と、何も変わらない徹。
その差が、少しだけおかしかった。
「綾瀬先輩は、どうですか?」
笑美が振り返った。
茉莉は、四人の少し後ろを歩いていた。
「……別に」
「人、多いですよね。大丈夫ですか?」
「大丈夫」
答えは短かった。
行き交う人とすれ違うたび、茉莉の指が制服の襟元へ触れている。
服の下にある何かを、確かめるような仕草だった。
「はぐれるなよ、綾瀬」
「子供じゃない」
「案内を逆さまに読んでた奴に言われてもな」
「それは寝てたから」
「起きろ」
茉莉は徹を見た。
何か言い返そうとしたらしい。
だが、結局は口を閉じ、また襟元へ指を添えた。
一行は、そのまま電車で豊洲へ向かった。
◇
豊洲の職業体験施設へ到着すると、クラスごとの点呼が行われた。
施設の説明が終わった途端、一年生の集団から笑美が飛び出してくる。
「トオル先輩! マコト先輩!」
「早いな、エミ」
「自由行動なので!」
「一年の班はいいのか?」
「点呼のときに戻れば大丈夫です!」
笑美は言い切り、そのまま二人の横へ並んだ。
それから、少し離れたところに立っている茉莉を見る。
「綾瀬先輩も、一緒に回りませんか?」
茉莉が、少しだけ目を開いた。
「……私も?」
「はい! 四人の方がすごく楽しそうです!」
「理由になってるようで、なってないな」
徹が言うと、笑美は首を傾げた。
「楽しいのは、すごく大事ですよ?」
「それはそうだけど」
茉莉は周囲を見回した。
別の班の生徒たちは、すでに興味のある区画へ散り始めている。
最後に、徹たち三人を見る。
「……じゃあ、一緒に行く」
「やった!」
笑美が笑う。
茉莉は、その勢いに少しだけ身を引いた。
「最初は何にする?」
誠が案内冊子を広げる。
「飲食、運送、整備、放送、販売――けっこうあるな」
「トオル先輩は何がいいですか?」
「空いてるところからでいいだろ。混んでるところに並ぶより、先に回れるところを回った方がいい」
「もう仕事みたいに考えてる」
「職業体験だぞ」
「正論だけど、なんか違う」
最初に空いていたのは、飲食店の仕事を体験する区画だった。




