第38話 無能力サポート、天使に気遣いが重いことを知られる
「稲垣君」
声をかけられ、徹は顔を上げた。
いつの間にか、三田が目の前に立っている。
マリーはすでに部屋の外だった。先に帰ったわけではない。廊下で、修繕費について事務局から説明を受けている。
「大丈夫ですか?」
「はい」
「そうは見えませんけど」
三田は徹の隣の椅子を引いた。
円卓の会長が、壁際の補助席へ座る。
「すみません。マリーさんは、会議になるといつもあんな感じで」
「いつもなんですか」
「いつもです」
「毎回?」
「毎回です」
三田が笑った。
「私は、あの子が好きなんだ」
突然の言葉に、徹は返事を忘れた。
三田は慌てたように片手を振る。
「ああ、変な意味ではないですよ」
「分かってます」
「今、一瞬疑ったでしょう」
「疑ってません」
「ならいいんですけど」
三田は中央のテーブルを見た。
青い蝶たちが、残された資料を一枚ずつ回収している。
「ああいう真っ直ぐな子がいるから、組織は正しくあろうと思えるんです」
「でも、誰も話を聞いてませんでした」
「聞いていますよ」
「そうは見えませんでした」
「聞くことと、従うことは違いますから」
三田は指先へ戻ってきた青い蝶を、資料へ戻した。
「私には、あの席で議事を進める仕事がある。だから、会議の外までは一緒に行けない」
三田が徹を見る。
「君は君のできることをしてくれ」
「俺に、できることですか」
「……できれば、隣にいてやってほしい」
依頼というより、願いに近い声だった。
徹が答える前に、廊下から声が飛んできた。
「トオル!」
マリーだった。
「いつまで話しているの! 帰るわよ!」
「ほらね」
三田が苦笑する。
「気をつけて。今日は荷物を持たせてもらえないと思いますよ」
「もう揉めました」
「でしょうね」
三田は立ち上がった。
その背後で、青い蝶が一斉に舞う。
徹も右手を膝について、ゆっくり立ち上がった。
◇
会議室を出たあと、徹は「少し一人で考えたい」と言って、マリーを先に帰らせた。
当然、すぐには納得しなかった。
家まで送る。
一人で帰れる。
途中で倒れたらどうする。
倒れない。
では位置情報を共有しろ。
嫌だ。
そんなやり取りをして、ようやく解放された。
徹は公園のベンチへ座った。
夕暮れの公園には、遊んでいる子供もいなかった。
右手を開いたり閉じたりする。
怪我は治っている。
痛みも、少しずつ薄くなっている。
会議室で何もできなかったことだけが、まだ残っていた。
「あれ。稲垣君じゃないっすか」
聞き覚えのある声がした。
顔を上げると、依田蓮人が立っていた。
制服姿ではない。軽い上着に、買い物袋を提げている。
「どうしたんすか、そんなところで。黄昏れるには若すぎません?」
「依田さん」
「隣、いいっすか?」
「どうぞ」
依田がベンチへ座る。
袋の中で、ペットボトル同士が軽く当たった。
「その腕、第十一層の件っすよね」
「はい」
「大変でしたねえ」
「死ぬかと思いました」
「それを笑って言えるなら、少しは大丈夫そうっすね」
依田は笑った。
相変わらず、目だけは笑っていない。
「何かあったんすか?」
「会議に出てました」
「会議。俺、一番苦手なやつっす」
「俺も苦手になりました」
「何か言わされたとか?」
「逆です」
徹は公園の地面を見た。
「何も言えませんでした」
「言わなかった?」
「言える席じゃなかったんです」
「なるほど」
依田はそれ以上、事情を聞かなかった。
足を伸ばし、ベンチの背へ体重を預ける。
「俺もたまに、何をすれば正解なのか分からなくなるんすよ」
「警察でも?」
「警察だから、ですかねえ」
軽い口調だった。
「助けた方がいいのか、見ていた方がいいのか。声をかけた方がいいのか、黙っていた方がいいのか。あとになってからなら、いくらでも言えるんすけど」
「そのときは分からない?」
「分からないっすね」
依田は空を見上げた。
暮れかけた空を、鳥が横切っていく。
「分からないまま、立ってるしかない日もあります」
「それ、かなり嫌ですね」
「嫌っすよ」
依田が笑う。
今度は、目元も少しだけ緩んだ。
「でもまあ、結局、自分にできることをやるしかないっす」
助言する声ではなかった。
自分へ言い聞かせるような声だった。
「そうですね」
「お。ちょっと若者を導いた感じが出ました?」
「今ので台無しです」
「厳しいなあ」
依田が立ち上がる。
「じゃあ、俺はこれで。晩飯の飲み物、買いに来ただけなんで」
「はい。ありがとうございました」
「何もしてないっすよ」
片手を振り、依田は歩いていく。
徹もベンチから立ち上がった。
肩はまだ痛かった。
それでも、帰ることはできそうだった。
◇
同じころ。
全員が退出したあとの円卓会議室で、三田は椅子へ深く座り込んでいた。
「会長、お疲れさまでした」
事務局の職員が、遠慮がちに声をかける。
「いやあ……やっぱマリーさん、パネェなあ」
会議中の穏やかな口調は、どこかへ消えていた。
「毎回ヴァリアント抜かれるんじゃないかって、ヒヤヒヤするよ」
「本当に抜かれた場合、会議室の修繕費はどこから出します?」
「それ、いま一番聞きたくない話」
三田が苦笑する。
「……でもさ」
少しだけ間を置いた。
「ああいう子だから、この組織は救われてるんだよ」
返事はなかった。
三田も、求めてはいなかった。
その言葉は、マリーが知ることのないまま、静かな会議室へ残った。
◇
翌日の昼休み。
茉莉は、いつものように机へ突っ伏していた。
眠ってはいない。
隣の席から聞こえてくる会話へ、耳を澄ませていた。
「なあ、マコト」
「どうした、専属くん」
「その呼び方をやめろ」
「で、何があった?」
「うちの上司が、最近ちょっとおかしいんだよ」
「前からだろ」
「前よりおかしいんだよ」
「何された?」
「毎晩、体調確認の連絡が来る」
「心配されてるじゃん」
「仕事中は、ちょっと顔をしかめただけで休まされる」
「それ、保護者じゃん」
「昨日、一人で帰るって言ったら、位置情報を共有しろって言われた」
「過保護な母親みたいだな」
「そこまで言うか?」
茉莉は、机に顔を伏せたまま固まった。
(過保護な母親……)
安全管理のつもりだった。
徹は痛みを我慢する。
危険でも前へ出る。
こちらが見ていなければ、また無茶をするかもしれない。
だから確認していただけだ。
(重いんだ……)
言葉が胸へ沈んだ。
茉莉は机の下でスマホを開いた。
マリーとして送る予定だったメッセージが、下書きに入っている。
『昼食は食べた?』
『薬は飲んだ?』
『肩の痛みは?』
『午後の授業は休んだ方がいいんじゃない?』
『今日の仕事は中止にしましょう』
茉莉は、しばらく画面を見つめた。
一行ずつ消していく。
全部消したところで、指が止まった。
何も送らないのは、それはそれで落ち着かない。
少し考えてから、新しく打ち込む。
『今日の集合は、いつもの時間でいいわ』
送信。
すぐに既読がついた。
『分かりました』
それだけだった。
「お、今日は上司から体調確認が来ない」
隣で徹が言った。
「話せば分かる人なんだな」
「盗み聞きされてない?」
「まさか」
徹と誠が笑う。
茉莉は、もう一度スマホへ手を伸ばした。
『肩の痛みは?』
そこまで打って、消す。
五分後。
またスマホへ手を伸ばしかけて、今度は画面を開く前に止めた。
それだけは、昨日までにはできなかった。




