第32話 無能力サポート、金色の翼と再会する
同じ頃。
深層の一角で、天使マリーは不機嫌だった。
誰の目にも分かる不機嫌だった。
『マリー様、今日やばくない?』
『三体まとめて消し飛んだんだが』
『素材……素材が……』
『経費……』
コメント欄が悲鳴を上げている。
マリーは大剣を振り抜き、岩壁ごと敵を消した。
『壁! 壁まで消えた!』
『修繕費いくらだと思ってんの』
「……うるさいわね」
『言った!』
『マリー様がコメント欄に噛みついた!』
『今日のマリー様、明らかに機嫌悪い』
『八つ当たりでは?』
「八つ当たりじゃないわ」
『否定した』
『否定するってことは自覚あるってことでは?』
「うるさい」
『そういえば専属くん最近見ないな』
マリーの手が、止まった。
『たしかに。ずっと画面外だったけど、声もしない』
『あの記事のせいで自粛とか?』
『マリー様、専属くんは?』
「……」
『マリー様?』
「関係ないでしょう」
マリーはドローンから顔を背けた。
その日の攻略は、いつもの倍の速度で終わった。
素材の回収率は、いつもの三分の一だった。
◇
撤収の途中。
マリーは、いつものように立ち止まった。
いつもなら、ここで飴が来る。
常温の水と、はちみつレモン味ののど飴。攻略が終わって、剣を収めて、ひと息つくときに、必ず横から差し出される。
彼女は、当たり前のように手のひらを上へ向けた。
何も、来なかった。
三秒ほど、そのままだった。
マリーは、手のひらをそっと引っ込めた。
『マリー様、いま何を待ってた?』
『手、出してたよね』
「……なんでもないわ」
マリーは、コートの襟を直した。
喉が、少し痛かった。
(誰かが、補充を忘れているのね)
そう思うことにした。
誰が補充していたのかは、考えなかった。
考えなかったというより、そこへ思考が届かなかった。
◇
第三層の平原。
夕方に近い時間だった。
「先輩、遺跡の中も入れますよ!」
「補修済みだからな。もう崩れない」
笑美が駆けていく。誠がドローンを追わせる。
徹は、その少し後ろを歩いていた。
つい最近、この地面を走ったのに、だいぶ昔のような気がしていた。
道具を投げ尽くして、素材を捨てて、それでも足りなくて、最後は自分が囮になった。
あのとき自分は、能力もなく、何も持っていなかった。
いまも、何も持っていない。
持っていたはずのものは、三日前に失った。
(……いや)
徹は首を振った。
考えるのはやめよう。今日はそういう日じゃない。
そのときだった。
足元から、低い音がした。
「……ん?」
地鳴りではなかった。もっと近い。すぐ下から、何かが軋む音。
徹は、足元を見た。
乾いた地面に、細い線が走っていた。
その線が、見ている間に伸びた。
「マコト! 月島!」
徹は叫んだ。
「そこから離れろ! 地面が――」
言い終わる前に、亀裂が広がった。
以前、巨大な竜がこの地面を歩いた。あの重さが、地下の何かを緩めていた。
地面が、割れた。
「先輩!」
笑美が振り返る。
徹は、二人の方へ手を伸ばした。逃がすつもりだった。あのときと同じように。
だが今度は、逃がすべき方向がなかった。
平原の一角が、まるごと落ちた。
◇
視聴者から見れば、それはこう見えた。
のどかな慰め配信。三十人ほどの視聴者。岩人形が二体倒れて、笑い声。
突然の地鳴り。
画面が揺れる。地面に線が走る。三人が振り返る。
地面が割れて、三人が落ちていく。
そして、真っ暗になった。
『え』
『え?』
『は?』
『何が起きた』
『ドローンは!?』
『落ちた……のか?』
配信は、そこで途切れた。
崩落した縁で羽根が折れ、通信が切れた。
それきり、映像は戻らなかった。
◇
「風の保護よ!」
落ちながら、誠が叫んだ。
淡い光が三人を包む。
落下の速度が、目に見えて落ちた。
「マコト! 持つのか!」
「持たせる! 範囲、広げたって言っただろ!」
誠の顔は青かったが、光は消えなかった。
三人は、ゆっくりと落ちていった。
徹は、上を見た。
遥か頭上に、白い光の点があった。
落ちてきた穴だ。そこから差し込む第三層の光が、小さな星のように見える。
その手前で、何かがくるくると回りながら落ちていた。
配信ドローンだった。羽根が折れている。
やがて、それも見えなくなった。
「……配信、切れたな」
徹は呟いた。
誰にも、届かない。
自分たちがここにいることを、地上の誰も知らない。
徹は端末を取り出し、緊急信号を発報した。
画面に、見たことのない表示が出た。
【信号強度 低下】
【中継点まで 推定距離 超過】
「……送信、できてるのか」
答えは、誰も持っていなかった。
落下は、まだ続いていた。
ゆっくりと。
だからこそ、下が、少しずつ見えてきた。
◇
最初に見えたのは、金色だった。
次に、翼だった。
徹の呼吸が、止まった。
広大な岩の平原に、それはいた。
空を覆うほどの翼。金の鱗。縦に裂けた黒い瞳。
ドラゴンロード。
それが、一体ではなかった。
二体。三体。岩陰の向こうにも、翼の影が見える。
「……嘘だろ」
誠の声が震えた。
「一体でも、マリー様が来なきゃ無理だったのに」
笑美は、何も言えなかった。
徹は、上を見た。
落ちてきた穴が、遥か遠くにあった。
あの穴は、下から上へ向かって開いている。
以前、この階層から何かが上へ抜けた跡だ。
(……この穴)
(もしかして、あのドラゴンロードは)
考えかけて、やめた。
いま考えることではなかった。
三人は、岩陰へ降り立った。
誠の光が消え、膝から崩れる。
「限界だ……」
「よくやった」
徹は誠を支え、笑美を引き寄せ、岩の裏へ押し込んだ。
そして、自分の手を見た。
震えていた。
止めようとしたが、止まらなかった。
当たり前だ。
自分はこいつに殺されかけた。
あの日から、眠れない夜が何度もあった。そのたびに、スマホでドラゴンロードを検索した。図書館にも通った。克服したかったわけではない。怖くて、それでも目を逸らせなくて、読んでしまっただけだ。
生態。行動範囲。捕食対象。習性。
覚えたくて覚えたわけではない。
勝手に、頭に入ってしまった。
「先輩」
笑美の声が、震えていた。
「私、撃ちます」
「撃つな」
徹は即答した。
自分の声も震えていた。
「月島。撃っても、倒せない」
「でも」
「倒せないなら、撃つのは今じゃない」
徹は、岩の陰から平原を覗いた。
一体が、ゆっくりと首を巡らせている。
徹の膝が、笑った。
「……動くな」
声が、掠れた。
「大きく、動くな」
「先輩?」
「あいつら、大きく動くものを、優先して狙う」
徹は、岩壁に背を押しつけた。
息が上がっている。喉が渇いている。心臓が、うるさい。
それでも、口だけが勝手に動いた。
「音には、そんなに敏感じゃない。……たぶん。小声なら、たぶん、大丈夫だ」
「たぶんって」
「たぶんだ。悪い」
徹は、笑おうとして失敗した。
「でも、たぶんが今の最高値だ」
誠が、地面に座り込んだまま徹を見た。
「トオル。お前、なんでそんなこと知ってんだ」
徹は答えなかった。
答えられなかった。
代わりに、平原の向こうを見た。
三体。いや、もっといる。
自分たちにできることは、倒すことではない。
隠れて、動かず、時間を稼ぐことだけだ。
救助が来るまで。
――救助は、来るのか。
徹は端末を見た。
【信号強度 低下】
表示は、変わっていなかった。
ここは第十一層。
浅層攻略者が、間違っても立てる場所ではない。
配信は切れた。信号は届いているか分からない。地上には、誰も残っていない。
誰も、自分たちがここにいることを知らない。
徹は、震える手で膝を押さえた。
押さえても、震えは止まらなかった。
金色の巨体が、ゆっくりと首を上げる。
その影が、岩陰の縁まで伸びてきた。
「……動くな」
徹は、もう一度そう言った。
自分に言い聞かせるように。




