第3話 無能力サポート、最強の天使に時給を訊く
耳鳴りがする。身体が動かない。
「……あれ?」
頭に触れると、ぬるりとした感触があった。手を見る。真っ赤に濡れている。
「血……?」
認識した途端、全身に痛みが走った。
徹は呻きながら上体を起こす。
小柄な男子は血を流して倒れていた。後輩の女子は、青ざめた顔で泣いている。大斧の男子は頭を抱え、誠は呆然と空を見上げていた。
徹も、その視線を追う。
黄金色の巨大な竜が、そこにいた。
胸ポケットのスマホが震える。うまく持てず、地面へ落とした画面に、緊急通知が表示されていた。
『深層で討伐中だったドラゴンロードが逃走。
第二層までの攻略者は、至急シェルターへ避難してください』
――推定報酬、一億二千三百万円。
今朝、大型ビジョンに流れていた数字が、頭の隅をよぎった。
あれは、住む世界の違う人間が狩る獲物だ。
その獲物が今、目の前に立っている。
最寄りの避難所――第三層ゲート、二百メートル。
だが、そのゲートはドラゴンロードの向こう側にある。
熱い。息をするだけで喉が焼ける。
ブラックウルフとは違う。工夫や連携でどうにかなる相手ではない。
圧倒的な力。勝てない。逃げられない。死ぬ。
涙が流れた。
徹は、もう一度仲間たちを見る。
倒れている者。泣いている者。恐怖で動けない者。
――では、自分は?
他の四人から、どんな姿に見えている?
そう思った瞬間、徹は涙を拭った。
震える膝を押さえ、立ち上がる。
ドラゴンの向こうに、第三層ゲート。自分たちの後方には、先ほどまで隠れていた崩れかけの遺跡。
生き残るための手順が、頭の中で組み上がっていく。
可能性は低い。けれど、動かなければゼロのままだ。
「マコト。みんな、聞いてくれ」
誰も反応しない。徹は声を抑えながら、もう一度言った。
「ドラゴンは、俺が引きつける」
三人が、ゆっくり顔を上げる。
「その間に、第三層ゲートの避難所へ行け」
「ト、トオル……?」
「動けないやつは運んでくれ。マコトは、俺が走り出したら風の保護をかけろ」
「でも、先輩は……」
「避難したら、すぐ救助を呼んでくれ」
徹は笑おうとした。しかし、うまく笑えている自信はない。
「たぶん、あまりもたないから」
「どうやってドラゴンを……」
「いいから!」
三人の身体が跳ねた。ドラゴンロードは、まだこちらを見ていない。
「前を見ろ。走れ。止まるな」
徹は大きく息を吸い、ゆっくり吐いた。
なぜ、自分がこんなことをしなければならないのか。そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。
だが、今動けるのは自分だ。今、何をするべきか考えられるのも自分だ。
能力があるか、ないか。強いか、弱いか。そんなことは関係ない。
やるべきだと分かっているなら、やるしかない。
「行けええええっ!」
仲間とは逆の方向へ、徹は走り出した。
叫びに反応し、ドラゴンロードが振り向く。巨大な瞳が徹を捉えた。
「よし……!」
竜が、こちらへ向かってくる。
あとは崩れた遺跡へ逃げ込めばいい。人間ひとりが入れる隙間ならある。救助が来るまで、そこで耐える。
そのはずだった。
翼が大きく広がる。
次の瞬間、ドラゴンロードは徹の頭上を飛び越え、遺跡への道を塞いだ。
「そうか……ドラゴンだもんな」
徹は足を止める。
「飛べるよな、そりゃ」
逃げ道が、消えた。
けれど、ドラゴンがこちらへ来たということは、誠たちは避難所へ行ける。
「やった甲斐は、あったな」
もっと準備しておけばよかった。警戒情報の更新日時を、もっと強く言えばよかった。危険だと分かったとき、計画を止めればよかった。
「もっと、上手くできたはずなのに……」
ドラゴンロードが咆哮した。身体が竦む。
そのときだった。
暗い地面に、一筋の光が差した。
竜の咆哮が止む。徹は空を見上げる。
「……天使?」
白銀の髪。真っ白なコート。背に負った、巨大な白刃。
今朝、大型ビジョンで見た少女が降りてくる。映像より、ずっと眩しく。
天使マリーが、そこにいた。
ドラゴンロードが翼を広げ、これまでにない咆哮を上げる。
だがマリーは竜ではなく、徹を見ていた。
「え……?」
目が合う。マリーの瞳が、ほんのわずかに和らいだ。
そして彼女は竜へ向き直り――徹と竜の、ちょうど間に立った。
背負った大剣へ手をかけ、一息に引き抜く。
「ヴァリアント――抜剣」
刀身を、青白い光が包んだ。
ドラゴンロードが飛びかかる。大きく開いた口に、赤い光が集まった。
まずい。逃げろ。
徹の本能が叫ぶ。
だがマリーは、青白い光をまとった大剣を肩に担ぎ、彗星のように突進した。
赤い奔流が放たれる。炎がマリーを飲み込む。
それでも、届かない。
青白い光が、ドラゴンの炎を切り裂いた。
マリーが、神剣を横薙ぎに振るう。
ドラゴンロードの頭部が、宙を舞った。
たった一撃。それだけで、戦いは終わる。
「これが……最強の天使」
一億二千三百万円が、目の前で首を落とされた。
住む世界が違う。徹は、その事実を文字どおり思い知らされた。
(これは、俺には無理だな……)
素直にそう思った。
(やっぱり、コンビニバイトくらいが性に合ってるわ)
マリーが、ゆっくりと徹の前へ降り立つ。
「……遅くなって、ごめんなさい」
マリーは膝をつき、徹の額の傷へ手を伸ばした。
「よく頑張ったわね。怪我は?」
柔らかな声だった。近くで見ると、なおさら現実味がない。美しく、可憐で、眩しい。
(……かわいいな)
徹は場違いにも、そんなことを思った。
「あなたの動き、見ていたわ」
「え?」
「救助通知に、あなたたちの配信映像が添付されていたの」
マリーは徹を観察するように見つめた。
「能力はないのね?」
「……はい」
「武器も、特別な装備もない?」
「はい」
「それなのに、仲間の能力と周囲の地形を使ってブラックウルフを倒した。ドラゴンを前にしても、仲間を逃がすために動いた」
マリーはわずかに笑う。
「あなた、すごいのね」
唐突に褒められ、徹は顔が熱くなるのを感じた。
「……どうも」
それしか言えなかった。
「配信に出ても、面白そう」
「え?」
「褒めているのよ。それより――」
マリーは白銀の髪をかき上げ、あらためて徹を見た。
「あなたに、いい話があるのだけど」
「はあ……」
「私の専属サポートにならない?」
意味が分からなかった。
初めてのダンジョン。ブラックウルフに追われ、ドラゴンロードに殺されかけ、最後には最強の天使から勧誘されている。
なぜ、無能力者の自分が。
夢なのか、現実なのか。
徹は短く息を吐き、マリーへ向き直った。
そして、苦笑しながら尋ねる。
「……時給、いくらですか?」




