第20話 無能力サポート、天使との休日をデート認定される
夕方。
通路の外れにある小さな広場のベンチに、二人は並んで座った。
天井の空は、また人工の夕焼けを再現している。
紙袋が一つ。マリーの膝の上に置かれていた。
「トオル」
「はい」
「今日、楽しかった?」
順番が逆だと、徹は思った。
それは、こちらが聞くはずの質問だった。
「……楽しかったですよ」
「そう」
「マリーは」
「……分からない」
マリーは、まっすぐ前を見ていた。
「分からない、ですか」
「疲れていないの。今日、一度も疲れていない」
「はい」
「なのに、怖かった」
彼女は、膝の紙袋を見た。
「時間が、減っていくのが」
徹は黙って聞いた。
「攻略した時間は、天使マリーに積み上がるわ。配信した時間も、練習した時間も、全部。使った分だけ、あの子が強くなる」
あの子、と彼女は言った。
自分のことを、そう呼んだ。
「でも、今日の時間は、何にも積み上がっていない。減っただけ」
マリーは、そこで初めて徹を見た。
「私、こういうお金の使い方も、時間の使い方も、たぶん、間違えている」
徹は、しばらく考えた。
そして、正確に答えることにした。
「今日の分は、経費に落とせません」
「……そうよね」
「一円も落ちません。パンケーキも、服も、電車代も」
「うん」
「でも、無駄でもないと思います」
マリーが顔を上げた。
「経費っていうのは、仕事のために使ったお金のことです」
徹は、自分の膝を見ながら言った。
「仕事じゃないお金の使い方を、俺は知りません。中学のときからずっとバイトしてて、休みの日は『シフトが入ってない日』でした。その日はだいたい、別のバイトの面接に行ってました」
「……」
「だから、今日は俺も初めてでした」
マリーが、小さく笑った。
その笑い方は、配信のものではなかった。
「二人とも初めてなの?」
「二人とも初めてです。だから下手でした」
「下手だったわね、お互いに」
「次はもう少しうまくやります」
言ってしまってから、徹は自分の言葉に気づいた。
次、と言った。
マリーは何も言わなかった。ただ、紙袋の持ち手を、少しだけ握り直した。
「マリー。その服のことですが」
「ええ」
「撮影で使えば、経費で落とせます。取材用の衣装ということにすれば、たぶん通ります」
「そうなの」
「はい。でも」
徹は、そこで一度、言葉を切った。
「これは、経費にしないでください」
マリーが、こちらを見た。
「……なぜ」
「なんとなくです」
「なんとなく」
「なんとなくです」
徹は、それ以上説明しなかった。
説明すると、余計なものになる気がした。
――それは、この人が、天使マリーのためじゃなく買った、たぶん最初のものだから。
言わないまま、徹は立ち上がった。
「帰りましょう。二十二時までに帰らないと、俺が捕まるので」
「まだ十七時よ」
「余裕を持つのがサポートです」
◇
その夜。
布団に潜ったまま、綾瀬茉莉は天井を見ていた。
(……ラーメン、美味しかったな)
(量が多かったけど)
(でも、全部食べた)
寝返りを打つ。
(クラスメイトと一緒にご飯を食べたのなんて、いつぶりだろう)
考えて、答えが出た。
(……初めてだ)
もう一度、寝返りを打つ。
(映画も初めて)
(アクション、面白かった。退路の取り方は雑だったけど)
そこで、動きが止まった。
(……キスシーン)
布団を頭まで引き上げる。
(あった。あったわ。途中に)
(男子と、二人で)
(隣で)
茉莉は枕へ顔を埋め、足を二回、ばたつかせた。
しばらくして、動かなくなった。
布団から顔だけ出す。
部屋の隅に、紙袋が置いてある。
中身は、まだ出していない。
(……明日、ハンガーに掛けよう)
起き上がって、机の明かりを点ける。
レシートが一枚、置いたままになっていた。
徹は「レシートは全部渡してください」と言った。毎日、律儀に集めて、律儀に渡している。
この一枚は、渡していない。
経費にならないからだ。
仕事のために使ったお金では、ないからだ。
天使マリーのために使ったお金では、なかったからだ。
「……」
茉莉は、レシートを指で押さえた。
捨てなかった。
去年、何百万円分もの領収書を一枚残らず捨てた人間が、この一枚を捨てられずにいる。
スマホを開き、スケジュールを表示する。
攻略。配信。収録。打ち合わせ。素材の納品。
その中に、白い日が一つ。
「……次の休日って、いつだっけ」
声に出して自分で調べる。
なんとなく、その声は浮ついていた。
◇
一週間後。
『CHARME』九月号が発売された。
表紙をめくった最初の見開きに、白いコートの少女が立っていた。
特集タイトルは、『天使の休日』。
徹は、通学路のコンビニで、それを三冊買った。
八ページのうち、最後の二ページ。
そこに、日曜日の写真が並んでいた。
パンケーキ。翼の模様が入った白いマグカップ。人工の夕焼け。生成りのシャツ。
そして、最後の一枚。
試着室の前の、丸テーブルの写真だった。
生成りのシャツを着たマリーが、椅子に座って笑っている。テーブルの上には、翼の模様の白いマグカップ。
そして、テーブルの端に。
徹の手だけが、ぽつんと写り込んでいた。
「……これ、使ったのか」
徹は、写真データをまとめて送ったことを思い出した。
選別は、神谷に任せていた。
◇
その日の教室は、うるさかった。
「専属くん!」
「その呼び方をやめろ」
誠が雑誌を広げて突進してきた。
「これ、お前だろ!? お前の手が載ってるぞ!」
「知ってる」
「ネットで『専属くんの手』がトレンド入りしてる」
「知りたくなかった」
「爪がちゃんと切ってあって好感度が高いって書いてある」
「なんの評価だよ」
教室の反対側では、女子たちが同じページを覗き込んでいた。
「天使マリーって、休日パンケーキ食べるんだ」
「意外〜。もっとストイックだと思ってた」
「この服、かわいくない? 普通に着られそう」
「ていうかこれ、休日に二人で買い物行ってるってことだよね」
「デートじゃん」
「デートだ」
徹は机に額をつけた。
「……なんで、こうなった」
その隣で。
綾瀬茉莉も、机に突っ伏していた。
髪の隙間から覗く耳が、真っ赤になっている。
「デートじゃん」も「絶対そうだよね」も、全部聞こえていた。
聞こえていたが、認めるわけにはいかなかった。
だから茉莉は、別のことを考えることにした。
(……無駄遣い、しちゃったかなあ)
財布の中に、レシートが二枚ある。
一枚は、あの日曜のアパレルショップ。
もう一枚は、三日後に一人で買いに行った雑貨屋のもの。
あの翼の模様が入ったマグカップだった。
どちらも、徹には渡していない。経費にならないからだ。
(服と、マグカップ)
(合わせて、それなりの金額)
(天使マリーには、一円も関係ない)
働いて得たお金を、あの子と関係のないものへ使った。
そんなことは、これまで一度もなかった。
教室は、まだ騒がしい。
顔を、そっと横へ向ける。
すぐ隣、徹の机の上に、雑誌が開いたまま置かれていた。
最後の二ページ。あの日曜日が並んでいる。
パンケーキ。人工の夕焼け。
生成りのシャツを着た天使マリー。丸テーブルの上の、翼の模様の白いマグカップ。
そして、テーブルの端に写り込んだ、彼の手。
三つとも、天使マリーのためのものではない。
それなのに、こうして同じ一枚に並んでいる。
茉莉は、しばらくそのページを眺めていた。
周りの声は、まだ続いている。
(……まあ、いいか)
誰にも見えない角度で、綾瀬茉莉は嬉しそうに笑った。
騒がしさは消えない。そのまま、始業のチャイムが鳴った。




