第16話 無能力サポート、天使の経理と休日を管理する
午後十時四十分。
稲垣徹は、机に広げた紙の山を睨んでいた。
レシート。納品書。装備店の請求書。配信機材の保証書。
どれも徹のものではない。すべて、天使マリーという事業に関わる書類だ。
専属サポートになって一か月。現場の管理も、配信の運営も、どうにか形になってきた。
残っているのは、いちばん面倒な領域だった。
金である。
ふと、手が止まった。
満十八歳未満は、午後十時以降、仕事してはならない。
先月、自分でそう言った。教室で叫びながら言った。
「……これは仕事じゃないだろ。事務だし、家だし」
誰にともなく言い訳をして、徹は電卓を叩き直した。
スマホが震えた。
『Mary』
徹は時計を確認した。
「……ぎりぎりセーフか」
夜十一時以降は、緊急時以外の連絡を送らない。先月決めた業務連絡ルールだ。
徹は通話ボタンを押した。
「お疲れさまです」
『お疲れさま。明日の第五層の件だけれど、素材ケースは大きい方でいいかしら』
「大きい方でお願いします。それより、こちらからも一件」
『どうぞ』
「経理を、俺が引き継ぎます」
『経理……』
「お金の管理です。領収書とか、経費とか」
電話の向こうが、静かになった。
『……経費って、何?』
徹の手が止まった。
「え」
『経費。聞いたことはあるわ。よく分からないけれど』
「……去年の確定申告、どうやったんですか」
『税理士さんがやってくれたわ』
「じゃあ、領収書は全部渡したんですね」
『領収書』
「レシートです」
『捨てたわ』
「全部?」
『全部』
徹は天井を見上げた。
「マリー。エリクサーって、一本いくらでしたっけ」
『さあ。百万くらいじゃないかしら』
「それ、経費でいけると思いますよ」
『経費でいけるって何?』
「配信ドローンも、照明も、武器の整備費も、通信費も、全部経費です。仕事のために使ったお金は、収入から引けるんです」
『収入から、引ける』
「詳しいことは税理士さんの仕事ですけど、簡単に言えばお得ってことです」
電話の向こうで、何かが起き上がる音がした。
『コスメも?』
「なります。配信に不可欠なので」
『……コスメが、経費』
「はい」
『トオル。去年、コスメにいくら使ったと思う?』
「いくらですか?」
『四百万円くらい』
「聞かなきゃよかった」
徹は電卓アプリを開いた。
エリクサー。ドローン。照明。整備費。通信費。装備。そして四百万円のコスメ。
国内最強の探索者の年収に、税率を掛ける。
指が止まった。
「俺、あまり詳しくないですけど……戻ってきた分で、もしかしたら車が買えたかも」
『車!?』
「いい車です。しかも数台」
「一軒家の頭金くらいにもなりました」
長い沈黙があった。
『私、今まで、なんてことを……』
「今年からやりましょう。レシートは全部取っておいてください。財布に入れて、俺に渡す。俺はそれを税理士に引き継ぐ、どうですか」
『分かったわ。今日から全部経費にする』
「全部は無理です」
「経費になるのは、仕事のための支出だけなので」
徹はペンを置いた。
もう少し分かりやすい方が良いかと言い直す。
「マリーが、天使マリーのために使ったお金が、経費になります」
返事がなかった。
徹は、聞こえなかったのかと思った。
『……じゃあ、やっぱり全部経費ね』
冗談だと思った。
だが、その声には、笑いの気配がなかった。
「……ええと」
徹は、なんと答えるべきか分からなかった。
そして、答えないまま、次の議題へ進んだ。
「もう一件、提案があります。休日を作りましょう」
「週に一日、完全なオフです。攻略も、配信も、収録も、打ち合わせも入れません」
『必要ないわ』
「必要です」
『私は疲れないもの』
「ダンジョンの中では、でしょう。外では疲れます」
電話の向こうが黙った。
『……休んだ分、誰かが先へ行くわ』
徹は、その一言を聞き逃さなかった。
最強と呼ばれる少女の声に、確かに焦りがあった。
だが徹は、そこに触れなかった。触れる資格が、まだ自分にあるとは思えなかった。
代わりに、彼女自身が作ったルールを持ち出した。
「業務連絡ルールの五番目。俺が無理をしている場合は、必ずマリーへ報告する」
『……そうね、約束したわ』
「無理してます、俺。だから休みをください」
ずるい言い方だと、自分でも思った。
少しの間があって、答えが返ってきた。
『分かったわ。日曜日でいい?』
「日曜日でお願いします」
『日曜日ね』
そこで、少しの間があった。
『トオル。あなた、いま何をしていたの』
「経理です」
『……それ、お仕事では?』
徹の手が止まった。
「……事務です」
『そう』
通話が切れた。その直前、小さく笑いがこぼれたのが聞こえた。
徹はスマホを置き、レシートの山へ戻った。
時刻は、二十三時を回っていた。
◇
通話を切ったあと、綾瀬茉莉は天井を見上げていた。
黒いジャージ。よれた靴下。枕元には飲みかけのゼリー飲料。
首元では、プラチナのような金属に留められた赤い宝石が、天井の光を弱く弾いている。
通常状態の神剣ヴァリアント。
「休日……」
声に出してみる。
悪くない響きのはずだった。
なのに、胸のあたりが落ち着かない。
茉莉は寝返りを打ち、スマホの画面を明るくした。
スケジュールアプリ。来週。再来週。その次。
攻略。配信。収録。打ち合わせ。素材の納品。スポンサーの確認。
びっしり埋まった予定表の、日曜日の欄だけが白い。
白いまま、何も書かれていない。
「……何をすればいいの」
誰も答えなかった。
◇
翌日の放課後。第三ゲート前。
配信を終えた徹は、行政タブレットの通知欄を開いていた。
「マリー。問い合わせが一件、来てます」
「スポンサー?」
「取材依頼です。女性誌の」
「女性誌」
マリーが振り返った。白いコートが揺れる。
「攻略雑誌じゃなくて?」
「はい。『CHARME』。二十代女性向けの月刊誌です」
徹は画面をスクロールした。
「特集八ページ。巻頭カラー付き」
「巻頭カラーとはまた、大きく出たわね」
「表紙をめくって最初のページですからね。いちばん目立つ場所だ」
マリーは、少しだけ考えるような顔をした。
「攻略の役に立たないし、受けなくてもいいんじゃない?」
「攻略の役には立ちませんが、お得です」
徹は即答した。
「うちの視聴者、七割が攻略クラスタです。強さと戦術を見に来る層ですね。悪いことじゃないですけど、偏ってます」
「偏っていると、何かダメなの?」
「スポンサーも偏ってしまうので、選択肢が狭まるんです。つまり、損です」
マリーの表情が変わった。
「女性誌に載ると、今まで攻略配信を見ていなかった層に届きます。化粧品も、飲料も、アパレルも、色々な会社がマリーを気にし始めます」
「……つまり」
「お得です」
「受けるわ」
「即答ですね」
「経費の話を聞いた翌日よ。私、いま人生で一番お金に真剣なの」
言いながら、マリーはコートのポケットから何かを取り出した。
くしゃくしゃになったレシートが三枚。
徹は、思わず表情を緩めた。
「ちゃんと取ってあるじゃないですか」
「言われたことは守るわ」
「素晴らしいです」
「褒めなさい、もっと」
「素晴らしいです」
――そうして徹は、返信を送った。
三十分後、電話が鳴る。
『はじめまして。CHARME編集部の神谷と申します』
落ち着いた、柔らかい声だった。四十歳前後だろうか。
「専属サポートの稲垣です。このたびは――」
軽く自己紹介した後、神谷が説明を始めた。
『天使マリーさんの特集を組ませていただきたくて。彼女の趣味や価値観、日常を見せていただきたいんです。強さの話は、正直どこの媒体でもやっていますので』
「具体的に、何を撮られるんですか」
『人です』
神谷は、あっさりとそう言った。
『天使マリーという“人”を撮りたいんです』
人――マリーという人間を、撮りたい。
徹は、その言葉に、一瞬だけ返事が遅れたが、マリーも乗り気だったことを思い出し、「それでは」と了承する。
スケジュールを調整して、撮影日の約束も取り付けた。
だが徹は、なぜ返事に一瞬迷ったのか。このときは分からなかった。




