第12話 無能力サポート、天使の深夜労働を疑う
昼休みの教室に、購買のコロッケパンの匂いが漂っていた。
稲垣徹は机にタブレットを立て、片耳だけイヤホンを挿している。
『はい、そんじゃ今日の目的、先に三つ言っときまーす』
【冒頭三十秒で本日の目的を宣言/途中から来た視聴者にも伝わる】
「またやってんのか、それ」
三枝誠が、パンを咥えたまま覗き込んできた。
「配信研究だよ。うちのは編成が行き当たりばったりだからな」
「うちのって、天使マリー様のことか?」
「他に誰がいるんだよ」
言いながら、徹はタブを切り替えた。
ニュースアプリの通知が溜まっている。ダンジョン区の再開発。素材相場の週次変動。
その中に、見慣れない見出しがあった。
『深夜業違反の疑い 配信事務所を書類送検 16歳を午後10時以降も稼働』
「……ん?」
徹は記事を開いた。
都内の配信事務所が、十六歳の所属配信者を深夜零時過ぎまで働かせ、労働基準法違反の疑いで書類送検された。
記事の末尾に、条文の要約が添えられている。
『満十八歳未満の者は、午後十時から午前五時までの間、労働させてはならない』
「……午後、十時」
徹の口の中が乾いた。
高校二年生。十七歳。当然、満十八歳未満である。
「いや、待て。うちは大丈夫だ。だっていつも……」
いつも、何時に帰っていただろうか。
徹は震える指で、天使マリーのチャンネルを開いた。
アーカイブ一覧。昨日の配信、開始十八時五十分。配信時間、三時間二十二分。
念のため、電卓アプリを起動して足した。
「……二十二時十二分」
その前の日。開始十九時ちょうど、四時間五分。
「二十三時五分」
徹は静かにタブレットを置き、大きく息を吸った。
「アウトォォォォォ!」
ガタン、と隣で音が鳴った。
いつも机に突っ伏している綾瀬茉莉が、跳ねるように上体を起こしている。
黒髪が乱れ、目は完全に開いていた。というより、開きすぎていた。
「わ、悪い。綾瀬。起こしたか」
「……起きた。すごく起きた」
茉莉はゆっくりと机へ戻り、また顔を伏せる。
クラス中の視線が集まる。誠が腹を抱えて笑った。
「お前、教室でなんて声出してんだよ」
「笑い事じゃない。うちの仕事、法律違反かもしれない」
「高校生が言うセリフじゃなさすぎる」
「二十二時を過ぎて働いたら違法なんだよ。十八歳未満は」
「へえ。で、誰が捕まんの? お前? マリー様?」
徹の指が止まった。
記事を読み返す。書類送検された事務所。稼働していた十六歳。難しい漢字。長い文章。
「…………分からん」
「分からんのかよ」
「分からんが、たぶん、まずい」
「たぶんで叫んだのかよ」
誠がまた笑った。
徹はタブレットを掴み、立ち上がった。
「とにかく、今日は早く上がる。労務管理はサポートの仕事だ」
「そこまで含まれてんの、専属サポートって……」
徹はもう聞いていない。頭の中では、今夜の撤収時刻の逆算が始まっていた。
その隣で、机に突っ伏した茉莉が、すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てていた。
◇
放課後。第三ゲート前。
徹は、鏡のように滑らかなインナーの襟を引っ張った。
軽くて薄いのに、対衝撃・耐毒・耐熱のすべてが行政基準を上回る特注品である。
値札は見た。見なければよかったと、今も思っている。
「動きに問題は?」
「ありません。ありませんが、値段を思い出すと動きが硬くなります」
「良いものは高いのよ、丈夫だし」
「俺の胃が大丈夫じゃありません」
白いコートのマリーが、涼しい顔で顎を上げた。
その首元で、通常状態のヴァリアントが、夕方の光を弾いている。
「マリー。今日、ひとつ提案があります」
「どうぞ」
「本日の撤収は二十一時三十分。遅くとも二十二時前にはゲートを出ます」
「なぜ?」
「捕まるからです」
マリーの動きが止まった。
「誰が?」
「……俺と、たぶん、マリーもです」
「……どういうこと?」
徹は記事を表示して見せた。
マリーは真剣な顔で読み、真剣な顔で頷き、そして言った。
「大丈夫よ。今まで捕まっていないもの」
「今までがセーフだった、は証明にはなりません」
「そう……そうよね」
マリーの指が、そわそわと首元の宝石へ伸びる。小さな駆動音とともに、赤い光が線を描いた。
「いざとなれば、このヴァリアントで……」
「やめてください」
「冗談よ」
「その冗談で本物の凶悪犯になるんですよ」
そのとき、マリーの端末が震えた。
着信画面を見た瞬間、マリーの動きが止まる。覗き込んだ徹も、同じ姿勢で固まった。
『警視庁 ダンジョン警察署』
「……け、警察から電話だわ」
「まさか、もう?」
「早くない? 私、今日はまだ一分も働いていないわよ」
「まだ、って言い方をやめてください」
マリーは端末を持ったまま、もう片方の手を首元の宝石へ伸ばした。
「ヴァ、ヴァリアントを用意した方がいいかしら」
「やめてください」
結局、宝石から指を離さないまま、マリーは通話ボタンを押した。
「……はい。天使マリーです」
三十秒後。
マリーは端末を下ろし、深く息を吐いた。
「逮捕じゃなかったわ」
「よかった。それで、ご用件は」
「護衛依頼よ。行政経由の、正式なもの」
マリーが画面を向けてくる。行方不明者捜索に伴う第七層までの同行護衛。対象者、十三歳、男子。
「中学生が、単独で第七層?」
「二日前から行方不明。装備はレンタル品で、誰にも言わずに潜ったそうよ」
徹は時計を見た。十六時四十分。第七層まで往復し、そのうえ捜索。
「……二十二時、間に合いますかね」
「祈りましょう」
「祈りで法律は止まりません」




