第9話 聖女と毒師の対峙
国王の寝室は、甘い腐臭に満ちていた。
甘露茸の毒が飽和した空気。薬師でなければ気づかないほど微かだが、私の鼻は確実に捉えた。
「陛下……」
大きな寝台に横たわる国王フリードリヒは、一月前に見た姿とは別人のようだった。頬はこけ、肌は蝋のように黄色く変色している。
「お前は……リーゼルか? 追放したはずの」
掠れた声だが、意識ははっきりしている。
「はい、陛下。不敬を承知で参りました。陛下のお命を救うために」
「命を救う、だと……? わしは聖女の薬で治療を受けておる」
「その薬が、陛下を蝕んでいるのです」
侍医ラウシュが成分分析書を国王に見せ、私が甘露茸の毒性について説明した。国王の表情が、驚愕から怒りに変わっていく。
「ハインリヒが……マリアンヌが……そのようなことを」
「陛下、まず解毒が先です。お許しいただけるなら、今すぐ薬を」
国王は震える手で私の腕を掴んだ。
「……頼む」
〈暁の雫〉を一滴、白湯に溶かして国王に飲ませた。効果は劇的だった。十分もしないうちに肌の黄色みが薄れ始め、呼吸が深くなる。
「……体が、軽い。頭の霞が晴れていくようだ」
「甘露茸の毒素が排出されています。完全な回復には数日かかりますが、峠は越えました」
国王が深く息を吐いた。その目に、王としての威厳が戻りつつあった。
「リーゼル。カイルも──息子も、同じ状態なのか」
「はい。殿下はさらに重度の依存状態にあると推察されます」
「……すぐにカイルをここに連れて来い。そしてハインリヒとマリアンヌを──」
国王がそう命じかけた瞬間、寝室の扉が勢いよく開かれた。
「陛下! 何事ですか!?」
駆け込んできたのはハインリヒ侯爵。その背後にマリアンヌ、そしてカイルがいた。
カイルの姿に息を呑んだ。かつての端正な顔立ちは面影もなく、虚ろな目、痩せた頬、黄色い肌。甘露茸の中毒は、国王よりもはるかに進行していた。
「なぜ、追放した女がここにいる!」
ハインリヒが私を見て叫ぶ。だが、すぐに冷静さを取り戻し、作り笑いを浮かべた。
「陛下、この女は追放された罪人です。何を吹き込まれたか存じませんが、惑わされてはなりません」
「ハインリヒ」
国王の声は、先ほどまでの弱々しさとは別物だった。
「甘露茸について、説明してもらおうか」
ハインリヒの目が一瞬揺れた。だが、すぐに余裕の笑みを作る。
「何のことでしょう。陛下の体調がすぐれないのは、この毒の女が何か飲ませたからでは? 侍医殿、陛下の体を検分してください」
「検分は済んでおる」
侍医ラウシュが前に出た。
「陛下の体内から検出されたのは、甘露茸の毒素だ。マリアンヌ殿の万能薬に含まれる成分と一致する」
空気が凍りついた。マリアンヌの顔から血の気が引く。
「そ、そんな……私は何も知りません! ハインリヒ様に言われた通りに薬を配っただけで──」
「黙れ、マリアンヌ!」
ハインリヒの怒声に、マリアンヌが怯えて口を閉じる。だが、もう遅い。「ハインリヒに言われた通り」──その一言で、関係性が露呈した。
「ハインリヒ侯爵。国王陛下と王太子殿下に対する毒殺未遂、王権の簒奪を企てた大逆罪。弁明はありますか」
レオンハルトが一歩前に出て、オスカーが書き写した取引記録を掲げた。
「辺境の下級領主が……何を知ったつもりでいる」
ハインリヒの声が低くなった。その目から、笑みが消えている。
「証拠と言えるものは何もない。書き写しなど捏造し放題だ。それに──」
ハインリヒが指を鳴らした。寝室の外から、武装した兵士たちが入ってくる。ハインリヒの私兵だ。
「この王城で実権を握っているのは、今や私だ。国王陛下もカイル殿下も、判断能力を失っている。この場にいる全員を、反逆者として拘束する」
兵士たちが剣を抜く。レオンハルトも剣を構えたが、多勢に無勢だ。
「レオンハルト、剣を収めて」
「何を言って──」
「大丈夫です。こうなることは想定していました」
私は静かに一歩前に出た。
「ハインリヒ侯爵。一つ教えてさしあげます」
腰のポーチから小瓶を取り出す。中身は透明な液体。
「これは〈真証の霧〉。浄心草と蒼月草を特殊な比率で配合した薬です。吸い込んだ者は、一刻の間──嘘がつけなくなる」
ハインリヒの顔色が変わった。
「はったりを──」
「はったりかどうか、試してみますか?」
小瓶の蓋に手をかける。ハインリヒの兵士たちが動揺した。
「この瓶を割れば、この部屋にいる全員に効果が及びます。もちろん私にも。つまり──この場の全員が真実しか語れなくなる。それで困るのは、誰でしょうね?」
沈黙が落ちた。
ハインリヒの額に汗が浮かぶ。
「……やめろ」
「やめてほしければ、今ここで全てを白状してください。甘露茸の入手経路、マリアンヌへの指示、王位簒奪の計画。全てを」
「ふざけるな! たかが薬師の小娘が──」
「割りますよ?」
蓋をひねる仕草をした瞬間、ハインリヒが叫んだ。
「やめろおおお!」
その絶叫が、全てを物語っていた。やましいことがなければ、真実の霧など恐れる理由がない。
「陛下。お聞きになりましたね」
国王が、ゆっくりと頷いた。
「……聞いた。ハインリヒ、もう十分だ」
その時、寝室の奥の扉が開き、オスカー率いる国王直属の近衛騎士団が姿を現した。密書で打ち合わせていた最後の手。国王の意識が回復した時点で、近衛に連絡を取る手はずになっていた。
「ハインリヒ侯爵。大逆罪の嫌疑により、拘束する」
オスカーの声が響く。ハインリヒの私兵たちは、近衛騎士団を前にして武器を下ろした。
「おのれ……おのれ、毒の女……!」
連行されるハインリヒの叫びを背に、私はカイルの元に歩み寄った。
「殿下。薬を飲んでください」
虚ろな目のカイルに、〈暁の雫〉を飲ませる。
一分、二分。やがてカイルの目に光が戻り始めた。
「……リーゼル? なぜ、お前がここに……」
「薬を届けに来ました。それだけです」
カイルの目に、複雑な感情が浮かんだ。罪悪感、困惑、そして──後悔。
「俺は……お前に、取り返しのつかないことを」
「はい。取り返しはつきません」
はっきりと言った。
「ですが、殿下が生きていてくださらなければ、この国の民が困ります。薬師として、それだけは許容できませんでした」
カイルが何か言いかけたが、私はすでに背を向けていた。
もう、振り返らない。
振り返る理由は、ない。
レオンハルトが扉の前で待っていた。無言で私の隣に立ち、共に廊下を歩き出す。
「……終わったな」
「ええ。終わりました」
もう少しだけ、やることが残っている。
だが──一番大きな戦いは、今、終わった。




