第10話 帰る場所
ハインリヒ侯爵の逮捕から三日。
王都は激震に包まれていた。
甘露茸による毒の実態が公表され、マリアンヌは共犯として拘束された。〈光の聖女〉の正体が偽りであったことに、民衆は怒り、嘆き、そして混乱した。
だが──混乱の中にも、確かな回復の兆しがあった。
〈銀嶺の雫〉の効果は、行商を通じて王都にも広がっていた。美容茶として購入していた貴族の婦人たちは、知らず知らずのうちに甘露茸の解毒を進めていたのだ。
「あの辺境の茶が、実は解毒薬だった」という話が広まると、〈銀嶺の雫〉は爆発的に求められるようになった。
私は三日間、王城の薬室に籠もった。かつての自分の薬室。荒れ果てた棚を整え、残っていた器具で〈暁の雫〉と〈銀嶺の雫〉を大量に調合した。
重症の依存患者には〈暁の雫〉を、軽症者には〈銀嶺の雫〉を。症状に応じた処方を侍医ラウシュと後輩のクラーラに伝え、王都全体での治療体制を整えた。
三日目の朝。薬室で最後の調合を終え、ふと顔を上げると、扉の前にカイルが立っていた。
〈暁の雫〉の効果で肌の色は戻りつつあったが、まだ顔色は優れない。それでも、虚ろだった目には意志の光が宿っていた。
「……入っても?」
「どうぞ」
カイルは薬室を見回し、苦い顔をした。
「荒れ果てているな。お前がいた頃は、いつも整然としていた」
「掃除する人がいなかっただけでしょう」
素っ気なく答えると、カイルは小さく笑った。自嘲の笑みだった。
「リーゼル。……いや、そう呼ぶ資格が俺にあるかどうか」
「名前くらいお好きに呼んでください。それで減るものはありません」
「……リーゼル。俺は、お前に謝らなければならない」
カイルが深く頭を下げた。王太子が頭を下げるなど、前代未聞のことだ。
「お前の力を正当に評価せず、マリアンヌの甘言に惑わされ、毒の薬師と蔑んで追放した。全ては俺の不明だ。……許してくれとは言わない。だが、宮廷薬師としての復職を──」
「お断りします」
迷いなく答えた。
カイルが顔を上げる。驚きの中に、どこか予想していたような諦めが混じっていた。
「……そうか」
「ただ、二つお願いがあります」
「何だ」
「一つ目。ギュンター師匠の名誉を回復してください。追放を撤回し、宮廷薬師団の長として復帰させること」
「……分かった。当然のことだ」
「二つ目。辺境への薬の配給を再開してください。ヴァルトハイム領だけではありません。王都が見捨ててきた全ての辺境領に、公平に」
カイルは沈黙した。それが王都の貴族たちの既得権益を揺るがすことだと分かっているのだろう。だが──。
「……約束する。王太子として、いや、これから王となる者として」
「ありがとうございます。それだけで十分です」
カイルは何か言いたげに口を開き、また閉じた。結局、一言だけ残して薬室を出ていった。
「……すまなかった。幸せに暮らせ」
その背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
恨みはない。怒りもほとんど消えた。ただ──もう、この場所は私の居場所ではない。
荷物をまとめ、王城を出た。
城門の外で、レオンハルトが二頭の馬と共に待っていた。
「終わったか」
「ええ。全部終わりました」
「なら、帰るぞ」
帰る。その言葉が、これほど温かく響いたことはなかった。
「……はい。帰りましょう」
馬に跨り、街道を西へ。辺境へ向かう道。
並んで馬を走らせながら、レオンハルトが口を開いた。
「リーゼル。一つ聞いていいか」
「何ですか?」
「王太子に復職を断ったそうだな。クラーラから聞いた」
「ええ。断りました」
「……なぜだ?」
しばらく考えて、正直に答えた。
「あそこには、もう私の薬を必要としてくれる人がいません。でも辺境には──」
言いかけて、止まった。辺境には、私を必要としてくれる人がいる。そう言おうとして、その言葉が指すものの大きさに気づいてしまった。
「辺境には?」
横から覗き込むレオンハルトの目が、少しだけ笑っている。
「……辺境には、まだ薬草が山ほどあるので。研究したいことが尽きないんです」
「そうか。薬草か」
「薬草です」
「薬草だけか?」
「……レオンハルト」
「何だ」
「黙って馬を走らせてください」
「了解した」
レオンハルトが声を出して笑った。その笑い声が、どうしようもなく心地よかった。
街道を二週間。
季節は巡り、辺境の森は新緑に萌えていた。
ヴァルトハイムの町が見えてきた時、私は思わず手綱を引いた。
町の入り口に、人だかりができている。住民たちが街道沿いに並び、こちらを見ていた。
「あ! リーゼル先生が帰ってきた!」
「先生ー! おかえりなさーい!」
「先生、待ってたんだよ!」
次々と声が上がる。手を振る人、泣いている人、花を掲げている人。
そしてその先頭に、エミリアが立っていた。両手いっぱいの花束を抱えて。
「リーゼルお姉ちゃん、おかえりなさい!」
馬を降りて駆け寄ると、エミリアが飛びついてきた。小さな体を受け止める。花束の中に、星辰撫子の白い花弁が見えた。
「ただいま、エミリア」
涙が溢れた。こらえようと思ったのに、止まらなかった。
こんなに大勢の人に「おかえり」と言われたのは、生まれて初めてだった。
レオンハルトが隣に来て、私の背にそっと手を添えた。
「おかえり。──リーゼル」
見上げると、彼もまた目元を赤くしていた。
「ただいま。──ただいま、レオンハルト」
辺境の風が吹いた。薬草と土と、新緑の匂いがする風。
これが、私の居場所の匂いだ。
──あの日、王城の大広間で婚約を破棄された時。
私は終わったのだと思った。
だが、あれは終わりではなかった。
毒の薬師の、本当の物語は──ここから始まったのだ。
*
診療所に戻ると、机の上にハンナからの書き置きがあった。
『リーゼル様。留守中に奇妙な依頼が届きました。南方のグラオス公国から、正体不明の疫病についての相談です。症状は黒霧熱に似ていますが、既知のどの毒とも一致しないとのこと。詳細は別紙にまとめてあります。急ぎませんが、目を通していただければ。──ハンナ』
別紙を読む。確かに奇妙な症状だ。既知の毒素では説明がつかない。
母の薬草図鑑をめくる。ある頁で手が止まった。南方の毒草に関する記述の中に、母の筆跡でこう書かれている。
『南方の古代遺跡より発掘された未知の毒草あり。現地名〈銀蛇蔓〉。接触した者に銀紋が広がり、やがて全身が石化するとの報告。毒性の調査に向かうも、道半ばにて断念。解毒の鍵は、遺跡内部に自生する〈黄金苔〉にあると推測。調査未了。リーゼル、いつかあなたが──』
文章はそこで途切れていた。
さらに図鑑の裏表紙にも、母の筆跡がある。だがそちらは滲んでほとんど読めない。かろうじて「南方」「島」「後悔」という単語が拾えるだけだ。いつか解読しなければ、とずっと思っていた。
窓の外を見る。夕暮れの辺境の空。
新しい謎。未知の毒。母が追いかけた答え。
「……やることが増えたわね」
口元に笑みが浮かぶ。薬師の血が、静かに騒いでいた。
毒の聖女の物語は、まだ終わらない。




