第7話 銀嶺の頂へ
銀嶺の登山は、想像以上に過酷だった。
麓から中腹までは針葉樹の森が続き、足場はまだ安定していた。だが樹木限界を超えた辺りから、岩と雪と風の世界に変わった。
「足を置く前に、岩の安定を確かめろ。辺境の山は見た目より脆い」
レオンハルトが先導し、ロープで私と体を繋いでくれている。騎士の鍛えた体力はさすがで、険しい岩場を物ともしない。一方の私は、薬師として山歩きには慣れているものの、この標高は未知の領域だった。
「大丈夫か?」
「……大丈夫、です。少しだけ、息が」
「無理はするな。少し休もう」
岩陰に腰を下ろし、水筒の水を口に含む。眼下には辺境の大地が一望できた。ヴァルトハイムの町が小さな点になっている。
「綺麗……」
「ああ。この景色を見ると、この土地を守りたいと改めて思う」
レオンハルトが隣に座り、同じ景色を眺めた。
「リーゼル。一つ聞いていいか」
「何ですか?」
「カイル王太子のこと。……まだ、想いがあるのか」
不意打ちの質問だった。だが、答えは迷わなかった。
「ありません。正直に言えば、最初からなかったのかもしれません」
「最初から?」
「婚約は家同士の取り決めでした。私はカイル殿下を敬ってはいましたが、それは薬師として王家に仕える忠誠心であって、恋慕ではなかった。殿下もまた、私の能力を利用していただけだったのでしょう」
言葉にすると、驚くほどすっきりした。
「だから追放された時、悲しみよりも安堵が先に来たのだと思います。……ただ」
「ただ?」
「それでも、殿下が毒で蝕まれるのを放っておけない。それは想いとは別の──薬師としての矜持です」
レオンハルトは黙って聞いていた。そして、ぽつりと言った。
「あんたは、強いな」
「強くなんかありませんよ。ただの意地です」
「意地で山頂まで登る女を、普通は強いと言うんだ」
思わず笑ってしまった。レオンハルトも笑った。凍えるような山の中腹で、二人で笑い合うのは奇妙だったが、不思議と寒さが和らいだ。
休憩を終え、再び登り始める。
標高が上がるにつれ、風は刃のように鋭くなった。岩肌に薄く積もった雪が足を滑らせる。
山頂付近に辿り着いたのは、出発から八時間後だった。
「あそこだ」
レオンハルトが指差した先、万年雪の隙間から顔を覗かせるように、青紫の花が咲いていた。
氷竜胆。
厳しい寒さと高山の魔力を吸って育つ、究極の薬草だ。その解毒作用は雪解百合すら凌駕する。花弁には微かな氷の結晶がまとわりつき、陽光を受けて虹色に輝いていた。
「なんて美しい……」
膝をつき、震える手で花に触れた。指先に伝わる冷たさと、微かな魔力の脈動。これだけの生命力を持つ薬草が、こんな過酷な環境で育つ。植物の力に、改めて畏敬の念を抱いた。
「根を傷つけないように……慎重に」
小刀で茎を切る。三本。念のためにもう二本。これだけあれば、強力な解毒薬が作れる。
「よし。採れた──」
その瞬間、足元の岩が崩れた。
「リーゼル!」
体が傾く。足場がない。眼下には数十メートルの崖。
──落ちる。
その判断が頭をよぎるより先に、腕を強く掴まれた。
レオンハルトが片手で岩を掴み、もう片方の手で私の腕を握っている。彼の顔が、すぐ目の前にあった。
「離す、な──!」
歯を食いしばり、レオンハルトが私を引き上げる。騎士の腕力が、私の全体重を支えていた。
岩棚に引き戻された瞬間、二人して雪の上に倒れ込んだ。荒い呼吸だけが、しばらく山頂に響いていた。
「……生きて、る」
「当たり前だ。死なせるか」
レオンハルトの声は怒っているようだった。だが、私の腕を掴んだ手はまだ震えていた。
「すみません……不注意で」
「謝るな。無事ならそれでいい」
起き上がり、氷竜胆を確認する。折れていない。全て無事だ。
「……花は守ったのか」
「薬師ですから。薬草を落とすくらいなら、自分が落ちます」
「馬鹿」
呆れたように言いながら、レオンハルトが外套を私の肩にかけた。
「寒いだろう。早く降りるぞ」
「あ……ありがとうございます」
外套からレオンハルトの体温が伝わってくる。さっきまで凍えていたはずなのに、妙に顔が熱い。
下山は登りよりも神経を使った。疲労で足が重い。何度も躓きそうになるたびに、レオンハルトが黙って手を差し伸べてくれた。
麓に着いたのは、日が完全に暮れた後だった。
「おにいちゃん! リーゼルお姉ちゃん!」
エミリアが提灯を持って待っていた。二人の姿を見て、安堵の涙を流しながら駆け寄ってくる。
「心配したんだよ……!」
「ごめんな、エミリア。無事に帰ったぞ」
レオンハルトがエミリアの頭を撫で、私に目を向けた。
「行くぞ。薬を作るんだろう」
「……はい」
疲労困憊のはずなのに、足が自然と診療所に向かっていた。
氷竜胆を調合台に並べ、作業を始める。今度の薬は、これまでで最も難度が高い。氷竜胆の有効成分は極めて不安定で、抽出の温度を一度でも誤れば効力が消える。
集中する。全神経を指先に注ぐ。
ハンナが横で補助をし、レオンハルトが火の管理を担う。三人の息が合い、調合は滞りなく進んだ。
夜が白み始めた頃──薬が完成した。
深い藍色の液体。一滴で、甘露茸の依存を完全に断ち切る。名前は〈暁の雫〉と名付けた。
「これで──カイル殿下を、救えます」
小瓶に詰めた〈暁の雫〉を光にかざす。美しい藍色が朝日を透かして輝いた。
あとは、これを王都に届ける方法。そして、ハインリヒの陰謀を暴く証拠。
二つが揃えば──全てが動き出す。
「リーゼル」
レオンハルトが、いつになく真剣な目で私を見ていた。
「薬は完成した。だが……もし王都に行くことになったら、必ず俺も同行する。あんたを一人で行かせはしない」
その言葉に込められた感情に、今度は気づかないふりができなかった。
「……ありがとう、レオンハルト」
窓の外で、辺境の朝が明けていく。
決戦の時は、近い。




