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第5話 王都の異変


 辺境に来て一月が過ぎた。


 診療所は軌道に乗り、私の日常は山での薬草採取と調合、そして患者の診察で埋まっていた。忙しいが充実している。何より、ここには私の薬を「不浄」と呼ぶ人間がいない。


 その日も朝から患者が続き、昼過ぎにようやく一息ついたところだった。


「リーゼル殿、客だ」


 レオンハルトが、一人の旅人を連れて診療所に入ってきた。旅人はフードを目深に被っていたが、その指先に見覚えがあった。薬品で荒れた、薬師の手だ。


「お久しぶりです、リーゼル様」


 フードを取ったその顔に、息を呑んだ。


「ハンナ……?」


 ハンナ・ベッカー。宮廷薬師団で私の助手を務めていた女性だ。三十代半ば、実直で腕のいい薬師。だが今、その顔には疲労が色濃く滲んでいた。


「どうしてここに。まさか、あなたまで追放されたの?」

「いえ、私は自分の意志で宮廷を出ました。リーゼル様にお伝えしなければならないことがあって……」


 ハンナの声が震えている。私はレオンハルトに目配せをし、奥の部屋に案内した。


「王都で、何が起きているの?」


 椅子に座ったハンナは、しばらく言葉を探すように黙っていた。やがて、絞り出すように語り始めた。


「リーゼル様が追放されてから一月。王都の薬事情は壊滅状態です」


「……壊滅?」


「はい。まず、マリアンヌ様の〈光の治癒〉が効かなくなりました」


 やはり、と思った。マリアンヌの治癒は、私の調合した薬を密かに使っていたに過ぎない。私がいなくなれば薬の在庫はいずれ尽きる。


「在庫の薬が底をついたのですね?」

「はい。マリアンヌ様は焦って別の薬師に調合を命じましたが……リーゼル様の処方は複雑すぎて、誰にも再現できません。特に〈第七級解毒薬〉は」


 第七級解毒薬。王族専用の、あらゆる毒に対応する万能解毒薬だ。調合には三十二種の薬草と、微量の毒物を精密に配合する技術が必要になる。


「ギュンター師は? 私が調合手順書を残したはずですが」

「ギュンター師は……追放されました」


「──何ですって?」


「リーゼル様の手順書を使って薬を作ろうとしたところ、『毒の薬師の技術を継承しようとした』として、マリアンヌ様に告発されたのです」


 血の気が引いた。ギュンター師は七十を超えた老体だ。追放など──。


「師匠は今、どこに」

「行方が分かりません。王都の門を出たところまでは確認しましたが……」


 拳を握り締める。怒りで視界が白くなりそうだった。


「それだけではありません」


 ハンナが、さらに声を低くした。


「マリアンヌ様……いえ、あの方は聖女などではないかもしれません」


「どういうこと?」


「〈光の治癒〉の正体がリーゼル様の薬だったことは、薬師団の間では薄々気づかれていました。ですが先日、もっと深刻な事実が判明したのです」


 ハンナが懐から一枚の紙を取り出した。薬品の分析結果が記されている。


「マリアンヌ様が最近『新たに開発した』と称して配布し始めた万能薬──あれを分析しました。成分は……〈甘露茸〉の抽出液です」


「甘露茸……!」


 驚愕した。甘露茸は、服用すると一時的に多幸感と健康感を与える──しかし常用すれば内臓を蝕む、依存性の極めて高い毒茸だ。


「つまり、マリアンヌは病気を治しているのではなく──」

「症状を麻痺させているだけです。患者は『治った』と錯覚しますが、実際には病は進行し続けている。しかも甘露茸の依存性で、薬をやめられなくなる」


 背筋が凍った。それは治療ではない。毒による支配だ。


「すでに王宮では、マリアンヌ様の万能薬を常用する者が増えています。カイル殿下も──」


「殿下も飲んでいるの?」


「毎日のように。最近は妙に上機嫌で、政務もほとんど行わなくなったと聞いています」


 カイルは確かに愚かだった。私を捨てたことも、マリアンヌを信じたことも。だが──毒で蝕まれていいとは思わない。


「リーゼル様。王都に戻っていただけませんか。このままでは王都の人々が──」


「戻れません」


 はっきりと言った。


「私は追放された身です。勝手に戻れば罪人になる。それに……戻ったところで、誰が私の言葉を信じますか? 毒の薬師の告発など、握り潰されるだけです」


 ハンナが唇を噛む。


「ですが──」


「ただし」


 私は分析結果の紙を手に取った。


「この情報を無駄にはしません。ハンナ、一つ頼みがあるの。あなたの持っている知識と技術で、甘露茸の解毒薬を作れる?」


「理論上は可能ですが、材料が──」


「この辺境にはある。甘露茸の解毒に使える〈浄心草〉が、この領の湿地帯に自生しているの。母の図鑑で確認済みよ」


 ハンナの目に光が戻った。


「では──ここで解毒薬を?」


「ええ。王都に戻ることはできなくても、薬を届けることはできる。それが薬師の戦い方です」


 扉の外に、レオンハルトの気配を感じた。聞いていたのだろう。彼はそっと扉を開け、静かに言った。


「リーゼル。ハンナ殿も、この領で匿う。追手が来たとしても、ヴァルトハイム領には入れさせない」


「レオンハルト……」


「辺境から王都を救う。面白い話じゃないか」


 その言葉に、ハンナが驚いたように目を瞬かせ──そして、初めて笑った。


「……リーゼル様がここに留まった理由が、分かった気がします」


 私は少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、調合台に向かった。


 甘露茸の解毒薬。配合は複雑だが、不可能ではない。時間はある。


 ──だが、一つ気がかりがあった。

 マリアンヌが甘露茸の知識を持っているということは、彼女の背後に誰かがいる。男爵令嬢にすぎない少女が、あれほど巧妙に宮廷を操れるはずがない。


 黒幕は──誰だ。


 窓の外では、辺境の穏やかな夕暮れが広がっていた。

 だが、その平穏がいつまでも続かないことを、薬師の勘が告げていた。


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