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第3話 月下の薬草摘み


 夜の森は、王都の暗がりとはまるで違った。

 月光が針葉樹の隙間から差し込み、銀色の道筋を作る。足元の落ち葉が踏むたびに小さな音を立てた。


「足元に気をつけろ。この先、岩場になる」


 先を歩くレオンハルトが、ランタンを掲げて振り返る。軽鎧の上に外套を羽織っただけの軽装だが、その足取りに迷いはなかった。生まれ育った山だからだろう。


「ありがとうございます。……妹さんのお名前は?」

「エミリアだ。今年で八つになる」


 硬い声だった。平静を装っているが、その横顔に滲む焦りを、私は見逃さなかった。


「黒霧熱は毒素による症状です。毒の扱いなら、私の専門です。必ず薬を作ります」

「……あんた、何者なんだ? 見たところ、ただの旅の薬師じゃない」


 足を止めようかと思ったが、やめた。立ち止まっている暇はない。


「元宮廷薬師です。少々事情があって、追放されまして」

「追放?」


 レオンハルトが驚いたように振り返った。


「ええ。〈毒の聖女〉なんて不名誉な呼び名をいただいていたものですから。新しい聖女が現れたのを機に、お払い箱というわけです」

「……毒の聖女」

「笑ってくださって構いませんよ。自分でも物騒な名前だと思いますから」

「笑わない」


 レオンハルトは前を向いたまま言った。


「毒を知る者だけが、毒から人を救える。そうだろう?」


 ──不意打ちだった。

 五年間、宮廷で誰にも理解されなかった言葉を、こんなところで聞くことになるとは。


「……ええ。その通りです」


 それ以上は何も言えなかった。喉の奥が、少しだけ熱くなった。


 岩場を越え、沢を渡り、獣道を辿って二刻。

 やがて森が開け、月光に照らされた斜面が目の前に広がった。


「ここだ。銀嶺の麓」


 そこに──咲いていた。


 月明かりの中で、白い百合が群生している。花弁が夜露を含んで銀色に輝き、まるで地上に星が降りたようだった。


「雪解百合……! こんなに」


 思わず駆け寄る。花弁に触れると、指先にかすかな魔力の波動を感じた。この花が持つ浄化作用は、通常の薬草の比ではない。母の記録通りだ。


「根ごと必要ですか?」

「いえ、花弁と茎で十分です。根を残せばまた咲きますから」


 私が素早く薬草採取用の小刀を取り出し、丁寧に花を摘み始めると、レオンハルトも見よう見まねで手伝ってくれた。


「茎はこの位置で切ってください。節の下──そう、そこです。お上手ですね」

「ただの見様見真似だ」


 そう言いながらも、彼の手つきは丁寧だった。花を傷つけないよう、慎重に刃を当てている。騎士の手が、こんなに優しく花を扱えるのか。


 二十本ほど摘んだところで、十分な量が集まった。これだけあれば、エミリアだけでなく療養所の患者全員分の治療薬が作れる。


「よし、戻り──」


 レオンハルトが言いかけた瞬間、森の奥から地鳴りのような音が響いた。


 振り返ると、木々の間から二つの赤い光が浮かんでいた。


「灰熊だ。……まずいな、繁殖期の雌だ」


 レオンハルトが剣を抜き、私の前に立つ。灰熊──辺境に棲息する大型の魔獣だ。通常の熊の倍はある巨体が、月明かりの下でゆらりと姿を現した。


「走れるか?」

「走れますが、その必要はありません」


 私は腰のポーチから小瓶を取り出した。


「何を──」

「〈眠り煙〉です。調合済みの物を常備しています」


 王都を出る前に作っておいた護身用の調合品だ。瓶を地面に叩きつけると、紫色の煙が一瞬で広がった。


 灰熊が怯んだように首を振る。二歩、三歩後退り──そのまま、どさりと倒れた。


「……眠ったのか?」

「ええ。三刻ほどで目覚めますが、その頃には私たちはもう戻っています」


 レオンハルトが目を丸くして私を見た。


「あんた……すごいな」

「毒使いですから。こういうことは得意です」


 少しだけ、胸を張った。宮廷では忌み嫌われた毒の技術が、ここでは命を守る力になる。


 帰り道は行きよりも早かった。レオンハルトが近道を知っていたのもあるが、二人とも急いでいた。エミリアの容体が持つのは、あと数刻。


 療養所に戻ったのは、東の空が白み始めた頃だった。


「リーゼルさん! エミリアちゃんの容体が──」


 看病をしていた女性が駆け寄ってくる。嫌な予感がした。


 寝台に駆け寄ると、エミリアの呼吸はさらに浅くなっていた。黒い斑点が首まで広がり、小さな唇が完全に紫色に変わっている。


「間に合う。まだ間に合います」


 自分に言い聞かせながら、調合を始めた。

 雪解百合の花弁をすり潰し、銀杉の樹液と混ぜる。そこに持参していた蒼月草の粉末を加え、弱火でゆっくりと煮詰める。

 母の図鑑に記された手順通り。だが、母の記録にはない一手間を加えた。


 ──微量の〈影蝮草〉の毒液。


 これは私だけが知る技法だ。猛毒を極微量混ぜることで、薬の浸透速度が劇的に上がる。宮廷時代に独自に発見した方法だが、「毒を薬に混ぜるなど言語道断」と、カイルに一蹴された技術でもあった。


「毒を、薬に……?」


 見ていたレオンハルトが呟く。


「はい。毒が体内の障壁を破り、薬の成分を一気に患部に届けるんです。量を間違えれば死にますが──間違えません」


 完成した薬液を、小さなスプーンでエミリアの唇に含ませる。


 一口。二口。三口。


 ……何も起きない。


 四口目を飲ませた時──エミリアの喉がこくりと動いた。自分から、薬を飲み込んだのだ。


 五分後。黒い斑点の色が、わずかに薄くなった。

 十分後。呼吸が深くなった。

 三十分後──。


「……おにい、ちゃん?」


 小さな声に、レオンハルトが膝をついた。


「エミリア……! エミリア!」


 少女の目が開いた。熱に潤んだ、けれど確かに生きている瞳。


 レオンハルトは妹を抱き締め、その肩を震わせた。


「リーゼル」


 名前を呼ばれた。顔を上げると、涙の跡を隠そうともせず、レオンハルトが私を見ていた。


「ありがとう。──ありがとう」


 不覚にも、目頭が熱くなった。

 宮廷では一度も言われなかった言葉だ。


 ──ああ、来てよかった。


 朝日が療養所の窓から差し込む中、私は残りの患者たちの治療薬を作り始めた。


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