第2話 辺境の疫病
王都から辺境のヴァルトハイム領まで、馬車を乗り継いで二週間。
街道は次第に細くなり、やがて鬱蒼とした針葉樹の森に呑み込まれた。
最後の宿場町で馬車を降りたとき、最初に感じたのは空気の違いだった。澄み切った冷気が肺を満たす。同時に、鼻腔がかすかな異変を捉えた。
──この匂い。
薬師として鍛え上げた嗅覚が警鐘を鳴らす。甘く、かすかに腐敗した匂い。これは──病の気配だ。
宿場町の通りは不自然に静かだった。昼間だというのに、人の姿がほとんどない。窓は固く閉ざされ、軒先には赤い布が結ばれている家が目立つ。
「赤い布は、病人がいる印……?」
一軒の家の前で足を止めると、中から咳き込む声が聞こえた。それも一人や二人ではない。
「あの、すみません」
通りの端で薪を運んでいた中年の女性に声をかける。女性は私の姿を見ると、警戒するように一歩退いた。
「旅の方かい? 悪いことは言わないから、この町には長居しないほうがいい。〈黒霧熱〉が蔓延してるんだ」
「〈黒霧熱〉……!」
息を呑んだ。母の薬草図鑑に記載があった疫病だ。高熱と黒い斑点が全身に広がり、末期には呼吸困難に陥る。致死率は五割を超える。
「治療薬は? この地域には薬師は──」
「薬師なんていやしないよ。領主様が王都に薬の手配を頼んでるらしいけど、もう三週間も音沙汰なしさ。昨日もまた二人死んだ。子供だったよ」
女性の声が震えた。
「……案内してください」
「は?」
「私は薬師です。患者を診せてください」
女性は目を丸くし、それから泣き出しそうな顔で頷いた。
案内されたのは、町外れの集会所だった。臨時の療養所として使われているらしい。扉を開けた瞬間、病の匂いが押し寄せてきた。
薄暗い室内に、二十人ほどの患者が横たわっている。老人、若者、そして幼い子供。誰もが高熱にうなされ、肌には黒い斑点が浮かんでいた。
「ひどい……」
だが、立ち止まっている暇はない。
私は荷物から調合器具を取り出し、まず患者の症状を一人ずつ確認した。
黒霧熱の原因は、湿地帯に発生する〈黒霧茸〉の胞子だ。胞子が体内に入り込み、肺から全身に毒素を広げる。つまり、これは感染症であると同時に──中毒でもある。
「毒なら、私の専門だ」
思わず口元が緩む。不謹慎だと分かっているが、五年間で染みついた薬師の本能が疼いた。
問題は治療薬の材料だ。王都であれば何の苦労もなく揃う薬草が、この辺境では手に入らない可能性がある。
母の薬草図鑑を開く。〈黒霧熱〉のページには、こう記されていた。
『基本処方:白嶺草の根、蒼月草の花弁、銀杉の樹液。ただし辺境部では白嶺草の代替として〈雪解百合〉が使用可能。解毒効果は白嶺草の三倍に及ぶが、群生地は限られる』
雪解百合。母が生涯をかけて研究していた幻の薬草だ。
「あの、この辺りに百合の花が咲く場所をご存知ですか? 雪解けの頃に、白い──」
「ああ、銀嶺の麓のことかい? あそこなら白い花が群生してるって、猟師が言ってたけど……あの辺りは魔獣が出るから、誰も近づかないよ」
銀嶺の麓。ここからどのくらいだろう。
「半日はかかるね。しかも山道だ」
迷っている暇はない。しかし、今すぐ出発すれば戻りは深夜になる。
「まずは、今ある材料でできることをします」
荷物の中から持参した乾燥薬草を取り出す。量は限られているが、症状を緩和する薬湯くらいは作れる。
調合を始めると、療養所にいた人々が物珍しそうに集まってきた。乳鉢で薬草をすり潰し、銀杉の樹液──幸い近くの森で採取できた──と混ぜ合わせる。
「これを白湯に溶いて、二刻ごとに飲ませてください。熱は下がりませんが、毒素の進行を遅らせます」
女性たちが驚きながらも手際よく動いてくれた。薬湯を口に含んだ患者たちの表情が、わずかに和らぐ。
「すごい……楽になったって」
「でも、これは応急処置です。根本的な治療薬を作るには、どうしても雪解百合が必要です」
覚悟を決めて、荷物をまとめ直す。明朝、銀嶺に向かう。
その時──療養所の扉が勢いよく開いた。
「疫病の療養所はここか!」
飛び込んできたのは、一人の青年だった。
銀灰色の髪を風になびかせ、騎士の軽鎧を身につけている。その腕には、ぐったりとした幼い少女が抱かれていた。
「頼む、この子を──妹を助けてくれ!」
少女の肌に浮かぶ黒い斑点。そして──その斑点の密度は、この療養所の誰よりも濃かった。
「……重症です。すぐに診ます」
私は青年から少女を受け取り、寝台に横たえた。脈は弱く速い。呼吸は浅く、唇が紫色に変わり始めている。
「いつからこの状態ですか」
「三日前から熱が出て……今朝から急に斑点が増えた」
三日。猶予は、あと二日もない。
私は母の薬草図鑑を握り締めた。
──明朝では遅い。今夜中に、雪解百合を手に入れなければ。
「銀嶺の麓まで案内してくれる人はいますか」
集まった人々が顔を見合わせる。夜の山道。魔獣の領域。誰も名乗り出ないのは当然だった。
銀灰色の髪の青年が、まっすぐに私を見た。
「俺が行く。道なら知っている」
「あなたは……」
「ヴァルトハイム領主代理、レオンハルト・ヴァルトハイムだ。この領の民を守るのが俺の務めだ──妹を、頼む」
その真摯な瞳に、私は頷いた。
「必ず、助けます」
それが、辺境の領主との出会いだった。




