表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/20

第2話 辺境の疫病


 王都から辺境のヴァルトハイム領まで、馬車を乗り継いで二週間。

 街道は次第に細くなり、やがて鬱蒼とした針葉樹の森に呑み込まれた。


 最後の宿場町で馬車を降りたとき、最初に感じたのは空気の違いだった。澄み切った冷気が肺を満たす。同時に、鼻腔がかすかな異変を捉えた。


 ──この匂い。


 薬師として鍛え上げた嗅覚が警鐘を鳴らす。甘く、かすかに腐敗した匂い。これは──病の気配だ。


 宿場町の通りは不自然に静かだった。昼間だというのに、人の姿がほとんどない。窓は固く閉ざされ、軒先には赤い布が結ばれている家が目立つ。


「赤い布は、病人がいる印……?」


 一軒の家の前で足を止めると、中から咳き込む声が聞こえた。それも一人や二人ではない。


「あの、すみません」


 通りの端で薪を運んでいた中年の女性に声をかける。女性は私の姿を見ると、警戒するように一歩退いた。


「旅の方かい? 悪いことは言わないから、この町には長居しないほうがいい。〈黒霧熱〉が蔓延してるんだ」


「〈黒霧熱〉……!」


 息を呑んだ。母の薬草図鑑に記載があった疫病だ。高熱と黒い斑点が全身に広がり、末期には呼吸困難に陥る。致死率は五割を超える。


「治療薬は? この地域には薬師は──」

「薬師なんていやしないよ。領主様が王都に薬の手配を頼んでるらしいけど、もう三週間も音沙汰なしさ。昨日もまた二人死んだ。子供だったよ」


 女性の声が震えた。


「……案内してください」

「は?」

「私は薬師です。患者を診せてください」


 女性は目を丸くし、それから泣き出しそうな顔で頷いた。


 案内されたのは、町外れの集会所だった。臨時の療養所として使われているらしい。扉を開けた瞬間、病の匂いが押し寄せてきた。

 薄暗い室内に、二十人ほどの患者が横たわっている。老人、若者、そして幼い子供。誰もが高熱にうなされ、肌には黒い斑点が浮かんでいた。


「ひどい……」


 だが、立ち止まっている暇はない。

 私は荷物から調合器具を取り出し、まず患者の症状を一人ずつ確認した。


 黒霧熱の原因は、湿地帯に発生する〈黒霧茸〉の胞子だ。胞子が体内に入り込み、肺から全身に毒素を広げる。つまり、これは感染症であると同時に──中毒でもある。


「毒なら、私の専門だ」


 思わず口元が緩む。不謹慎だと分かっているが、五年間で染みついた薬師の本能が疼いた。


 問題は治療薬の材料だ。王都であれば何の苦労もなく揃う薬草が、この辺境では手に入らない可能性がある。


 母の薬草図鑑を開く。〈黒霧熱〉のページには、こう記されていた。


『基本処方:白嶺草の根、蒼月草の花弁、銀杉の樹液。ただし辺境部では白嶺草の代替として〈雪解百合〉が使用可能。解毒効果は白嶺草の三倍に及ぶが、群生地は限られる』


 雪解百合。母が生涯をかけて研究していた幻の薬草だ。


「あの、この辺りに百合の花が咲く場所をご存知ですか? 雪解けの頃に、白い──」

「ああ、銀嶺の麓のことかい? あそこなら白い花が群生してるって、猟師が言ってたけど……あの辺りは魔獣が出るから、誰も近づかないよ」


 銀嶺の麓。ここからどのくらいだろう。


「半日はかかるね。しかも山道だ」


 迷っている暇はない。しかし、今すぐ出発すれば戻りは深夜になる。


「まずは、今ある材料でできることをします」


 荷物の中から持参した乾燥薬草を取り出す。量は限られているが、症状を緩和する薬湯くらいは作れる。


 調合を始めると、療養所にいた人々が物珍しそうに集まってきた。乳鉢で薬草をすり潰し、銀杉の樹液──幸い近くの森で採取できた──と混ぜ合わせる。


「これを白湯に溶いて、二刻ごとに飲ませてください。熱は下がりませんが、毒素の進行を遅らせます」


 女性たちが驚きながらも手際よく動いてくれた。薬湯を口に含んだ患者たちの表情が、わずかに和らぐ。


「すごい……楽になったって」

「でも、これは応急処置です。根本的な治療薬を作るには、どうしても雪解百合が必要です」


 覚悟を決めて、荷物をまとめ直す。明朝、銀嶺に向かう。


 その時──療養所の扉が勢いよく開いた。


「疫病の療養所はここか!」


 飛び込んできたのは、一人の青年だった。

 銀灰色の髪を風になびかせ、騎士の軽鎧を身につけている。その腕には、ぐったりとした幼い少女が抱かれていた。


「頼む、この子を──妹を助けてくれ!」


 少女の肌に浮かぶ黒い斑点。そして──その斑点の密度は、この療養所の誰よりも濃かった。


「……重症です。すぐに診ます」


 私は青年から少女を受け取り、寝台に横たえた。脈は弱く速い。呼吸は浅く、唇が紫色に変わり始めている。


「いつからこの状態ですか」

「三日前から熱が出て……今朝から急に斑点が増えた」


 三日。猶予は、あと二日もない。


 私は母の薬草図鑑を握り締めた。


 ──明朝では遅い。今夜中に、雪解百合を手に入れなければ。


「銀嶺の麓まで案内してくれる人はいますか」


 集まった人々が顔を見合わせる。夜の山道。魔獣の領域。誰も名乗り出ないのは当然だった。


 銀灰色の髪の青年が、まっすぐに私を見た。


「俺が行く。道なら知っている」

「あなたは……」

「ヴァルトハイム領主代理、レオンハルト・ヴァルトハイムだ。この領の民を守るのが俺の務めだ──妹を、頼む」


 その真摯な瞳に、私は頷いた。


「必ず、助けます」


 それが、辺境の領主との出会いだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ