第19話 辺境に咲く花
南方から辺境に戻る旅路は、行きよりも穏やかだった。
グラオス公国を発つ際、宰相ザイデルが盛大に見送ってくれた。リーベルの住民たちが港に集まり、手を振り、花を投げた。完全石化から覚醒した船大工のトーマスが、わざわざ修理したての船で港の外まで伴走してくれた。
「また来てくださいね、先生!」
「リーゼル先生、ありがとう!」
「黄金の聖女万歳!」
最後の叫びには思わず苦笑したが、悪い気はしなかった。
街道を北へ。季節は巡り、辺境に近づくにつれて空気が澄んでいく。見慣れた針葉樹の森が見えた時、自分でも驚くほど心が安らいだ。
「帰ってきた……」
「ああ。帰ってきた」
レオンハルトの声にも、同じ安堵が滲んでいた。
ヴァルトハイムの町に入ると、前回と同じように住民たちが出迎えてくれた。ハンナが診療所の前で手を振り、エミリアが全速力で駆けてくる。
「おにいちゃん! リーゼルお姉ちゃん! おかえりなさーい!」
飛びついてきたエミリアを受け止める。前より少し背が伸びた気がする。
「ただいま、エミリア」
「長かったよ……! でもね、私、ハンナさんに薬草の見分け方教えてもらったの!」
「本当? すごいじゃない」
「うん! 星辰撫子と毒消し草の違い、もう分かるよ!」
エミリアの成長が嬉しくて、思わず強く抱き締めた。
ハンナが近づいてきて、ほっとした表情で報告する。
「お帰りなさい、リーゼル様。留守中、大きな問題はありませんでした。〈銀嶺の雫〉の製造も順調です。あと……王都からお手紙が届いています」
「王都から?」
診療所に戻ると、机の上に二通の手紙があった。
一通目は、ギュンター師匠から。
『リーゼルへ。宮廷薬師団の長に復帰した。お前が王太子に進言してくれたおかげだ。礼を言う。クラーラが良い薬師に育っている。お前の教えが生きているぞ。南方での活躍も聞いた。お前の母カティアも、きっと喜んでいる。──ギュンター』
目頭が熱くなる。師匠がお元気そうで何よりだ。
二通目は──カイルからだった。
『リーゼル・フォーゲル殿。辺境への薬の配給再開を正式に布告した。ヴァルトハイム領を含む全辺境領に、月一回の薬草と医療物資の輸送を開始する。これは王太子としての約束であり、今後覆されることのないよう法令として定めた。……重ねて、過去の非礼を詫びる。──カイル・ヴァイスブルク』
手紙を読み終え、静かに机に置いた。
「カイル殿下、約束を守ってくれたんですね」
「当然だ。あれだけの恩を仇で返し続けたんだから、これくらいは最低限だ」
レオンハルトの辛辣な感想に笑いながら、窓を開けた。辺境の夕暮れの風が吹き込む。薬草と土と森の匂い。私の居場所の匂い。
夕食後。エミリアが寝た後、レオンハルトが診療所を訪ねてきた。
「……話がある、と言っていましたね。船の上で」
私が先に切り出すと、レオンハルトは珍しく落ち着かない様子で椅子に座った。いつもは堂々としている人が、視線を泳がせている。
「ああ……話がある」
「何ですか」
「その……帰ってきてからにしようと思ったのは、ちゃんとした場所で言いたかったからだ」
「はあ」
「辺境で。お前の──いや、俺たちの町で」
レオンハルトが一度深く息を吸い、それから真っ直ぐに私を見た。
「リーゼル。俺はお前に──」
その瞬間、診療所の扉が勢いよく開いた。
「先生! 大変です! 森の向こうの開拓村から急患が! 子供が高熱で!」
住民が駆け込んできた。
「熱は何度ですか。いつからですか。発疹は──」
反射的に薬師の顔に切り替わる。荷物を掴み、外に出る準備をしながら、ふとレオンハルトを見た。
彼は──呆れたように、だが温かく笑っていた。
「……行ってこい」
「ごめんなさい。話の続きは──」
「待ってる。いつまでも」
その言葉に胸が震えたが、今は患者が優先だ。
「必ず聞きます。だから──待っていてください」
ランタンを手に、夜の森に駆け出す。急患の元へ。
走りながら、口元が緩むのを止められなかった。
レオンハルトが何を言おうとしたか、たぶん分かっている。いや、ずっと前から気づいていた。気づいていて、気づかないふりをしていた。
でももう、ふりをする必要はない。
急患を治療して戻ったら。
今度こそ、ちゃんと聞こう。
そして──ちゃんと、答えよう。
森の夜道を走る足は、驚くほど軽かった。




