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第20話 毒の薬師の処方箋


 開拓村の急患は、三歳の男の子だった。


 高熱と咳。診察すると、喉が赤く腫れ、胸に軽い炎症がある。南方の風土病でも銀蛇蔓の毒でもない。ありふれた、しかし幼い子供には危険な喉の感染症だった。


「星辰撫子の解熱薬と、銀杉の樹液をベースにした消炎薬を処方します。二刻ごとに薬湯を飲ませてください」


 母親が不安そうに見守る中、薬湯を飲ませると、一時間ほどで男の子の呼吸が楽になった。


「せんせ……にがい」

「お薬だからね。頑張って飲んだら、明日にはお外で遊べるよ」

「ほんと?」

「本当。お姉ちゃんは嘘つかないよ」


 男の子がこくりと頷いて目を閉じた。穏やかな寝息が聞こえ始めて、ようやく私も息をついた。


「……先生、ありがとうございます。この子が死んじゃうかと……」


 母親が泣きながら何度も頭を下げる。


「大丈夫です。明日もう一度診に来ますから、薬は忘れずに」


 開拓村を出たのは、深夜の二時だった。


 ランタンの光を頼りに森の道を歩く。空は晴れ、辺境の満天の星が木々の隙間から見えた。


 町に戻ると、診療所の窓に灯りがついていた。


 ──待っていてくれている。


 扉を開けると、レオンハルトが椅子に座っていた。膝の上には毛布が置かれ、机にはまだ温かいスープと、焼きたてのパンが用意されている。


「……待っていてくれたんですね」

「待ってると言っただろう」


 椅子に座り、スープに口をつける。芋とベーコンの優しい味。凍えた体に染み渡った。


「急患は」

「大丈夫です。ただの喉の炎症でした。明日には熱も引くでしょう」

「そうか」


 沈黙が流れた。心地よい沈黙だった。


 スープを飲み終え、パンをちぎる。


「……話の続き、いいですか」

「ああ」


 レオンハルトが居住まいを正した。さっきまでの穏やかな空気が、ほんの少し緊張を帯びる。


「リーゼル」


「はい」


「お前が辺境に来てから、この町は変わった。病で死ぬ者がいなくなった。遠方から人が訪れるようになった。公国との交易路もできた。全部、お前のおかげだ」


「それは私だけの力では──」


「最後まで聞け」


 口を閉じる。


「だが、俺がお前に伝えたいのは、そういう話じゃない」


 レオンハルトが立ち上がり、私の前に来た。月明かりが窓から差し込み、銀灰色の髪を照らしている。


「お前が山で崖から落ちかけた時。島で銀蛇蔓に囲まれた時。王城でハインリヒに剣を向けられた時。──その度に、俺は心臓が止まるかと思った」


「……」


「最初は、領民を救ってくれた薬師への恩だと思っていた。次に、エミリアを助けてくれた人への感謝だと思った。だが──違った」


 レオンハルトの手が、そっと私の手を取った。薬品で荒れた、決して綺麗とは言えない私の手を、騎士の大きな手が包む。


「俺はお前がいない日常に耐えられない。お前のスープを作る理由が欲しい。お前が薬草に夢中になって飯を忘れる姿を、隣で呆れながらずっと見ていたい」


 心臓がうるさい。薬師として冷静であるべきだと頭が言うのに、体が言うことを聞かない。


「リーゼル。──俺の隣にいてくれないか。薬師としてじゃなく、一人の人間として」


 ……ああ、もう。

 この人はいつも、まっすぐすぎる。


「レオンハルト」

「……何だ」

「一つだけ、条件があります」


 レオンハルトの表情がわずかに強張る。


「私は薬師を辞めません。朝も夜も調合に没頭するし、急患があれば真夜中でも飛び出します。薬草のために山を駆け回るし、未知の毒があれば遠くまで旅に出ます。たぶん、ひどく手のかかる人間です」


「……ああ。知ってる」


「それでも、いいんですか」


 レオンハルトが笑った。あの銀嶺の山頂で、二人で笑い合った時と同じ笑顔だった。


「最初から全部分かった上で言ってるんだ。お前のスープを作り続ける覚悟は、とっくにできている」


 もう言い逃れはできなかった。する気もなかった。


「……では。お言葉に甘えて、あなたの隣にいます」


 繋いだ手に、力がこもった。


「ありがとう」


 レオンハルトの声が、かすかに震えていた。


 窓の外で、夜明けの光が森の端を染め始めていた。辺境の朝だ。何百回と見てきた、だけど今日は特別に美しい朝。


「……さて。朝になってしまいましたし、今日の診療の準備をしないと」


「おい。少しは余韻に浸れ」


「薬師に余韻は贅沢品です」


「今日くらいは贅沢しろ」


 窓辺に並んで立ち、二人で朝日を見た。辺境の山々が金色に染まっていく。


 ──追放されたあの日。王城の夕陽を最後に見て、もう振り返らないと決めた。


 今、目の前にあるのは夕陽ではなく朝日だ。終わりではなく始まりの光。


 毒の薬師は、追放先で居場所を見つけた。

 信頼できる仲間と、守りたい町と、大切な人を見つけた。


 これは聖女の奇跡なんかじゃない。

 薬師が薬師として、一つずつ調合し、一人ずつ治療し、一歩ずつ歩いてきた道のりの結果だ。


 *


 その日の午後。診療所に一通の手紙が届いた。


 差出人はギュンター師匠。だが内容は、先日届いた手紙とは全く違う緊迫したものだった。


『リーゼルへ。至急。

 西方のアイゼンガルド帝国との国境沿いで、奇妙な現象が報告されている。兵士たちが原因不明の狂暴化を起こし、互いに斬り合っているという。調査に向かった宮廷薬師が言うには、狂暴化した兵士の血液から未知の毒素が検出されたとのこと。

 だが、この毒素のパターンに、わしは見覚えがある。

 お前の母カティアの図鑑に記されていた──〈古代の戦の毒〉に、酷似しているのだ。

 南方の遺跡で何を見つけたか、詳しく聞かせてほしい。

 嫌な予感がしてならない。──ギュンター』


 母の図鑑を開く。古代の毒に関する記述を探す。


 あった。南方の遺跡の壁画に描かれていた第一区画──銀蛇蔓の生態の横に、別の毒草の図があったことを思い出す。赤黒い花弁の植物。壁画では銀蛇蔓の隣に描かれていた。


 母のメモ。


『〈赤蛇蔓〉──銀蛇蔓の亜種。銀が肉体を蝕むなら、赤は精神を蝕む。古代の戦争で使用されたとの壁画記述あり。遺跡内には未確認。ただし、遺跡は一つではないとの暗示あり──』


 遺跡は一つではない。


 南方の銀蛇の島は、古代文明の毒草管理施設の一つに過ぎなかった。


 では──西方にも、別の遺跡が?


「レオンハルト」


 手紙を見せると、彼の表情が引き締まった。


「……また、旅になりそうだな」

「ええ。でも今回は──」


 目が合う。二人で笑った。


「一緒に、ですね」

「当然だ」


 窓の外で、辺境の風が吹いている。

 新しい毒。新しい謎。新しい旅。



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