第17話 聖女なんかじゃない
完全石化者の覚醒治療は、一人ずつ丁寧に行った。
結果は十二人中、十人が覚醒に成功。残る二人は石化から十一ヶ月が経過しており、心臓の起伏も極めて微弱だった。壁画に記された「一年の限界」が迫っている。
「あと二人……何とかしたい」
焦る私をよそに、リーベルの町には活気が戻りつつあった。軽症者の治療はほぼ完了し、中等症者も順調に回復している。銀蛇蔓の忌避液を町中に散布したことで、新たな感染者も出なくなった。
そして──町の人々の間で、ある呼び名が広まり始めていた。
「黄金の聖女様」
最初に聞いた時は耳を疑った。
「リーゼル先生は黄金の聖女様だ。石になった人を蘇らせるなんて、人間業じゃない」
「辺境で毒の疫病を治し、王都の陰謀を暴き、今度は石化の病まで。聖女以外の何だと言うんだ」
「黄金苔から作った薬で人を救う。まさに黄金の聖女……!」
港の市場で買い物をしていたら、すれ違う人々が次々と頭を下げてくる。中には跪く者までいた。
「やめてください。私はただの薬師です」
困惑する私に、レオンハルトは面白そうに笑った。
「辺境では〈毒の聖女〉、南方では〈黄金の聖女〉。称号が増えていくな」
「笑い事じゃありません。聖女なんて呼ばれたら、あのマリアンヌの二の舞になりかねない」
「お前とあの偽聖女を一緒にする奴はいないだろう」
「そういう問題じゃないんです」
声が大きくなった。自分でも驚くほど。
「……聖女という称号は、人を壊すんです」
レオンハルトが笑いを引っ込めた。
「マリアンヌは、元は普通の男爵令嬢だった。ハインリヒに利用されたとはいえ、〈聖女〉と呼ばれ、崇められることに酔ったのも事実です。人は崇拝されると、期待に応えなければという重圧に押しつぶされる。そして手段を選ばなくなる」
「……お前も、そうなると?」
「ならないとは言い切れません。だから──聖女とは呼ばれたくない。私は薬師です。薬を作って、患者を治す。それだけの人間です」
真剣に言ったつもりだった。だがレオンハルトは、優しい目で私を見ていた。
「なら、俺が見張っていてやる。お前がおかしくなったら、全力で止める」
「……そういう役目は、普通もう少し繊細な言い方をするものですよ」
「繊細さは持ち合わせていない。辺境育ちなもんでな」
思わず笑ってしまった。この人は本当に、変なところで力を抜かせてくれる。
翌日、宰相ザイデルが正式に面会を求めてきた。
「リーゼル殿。グラオス公国として、正式にお礼を申し上げたい。あなたの功績は計り知れない」
「お礼には及びません。薬師として当然のことをしただけです」
「ご謙遜を。つきましては、公国としてお願いがある。リーベルに公国の薬師として留まっていただけないだろうか。相応の地位と報酬を用意する」
また、この話か。王都でもカイルに復職を求められた。そして今度は公国から。
「ありがたいお話ですが、お断りします」
「なぜ……?」
「私の居場所は辺境のヴァルトハイムです。あそこに帰って、診療所を続けたい。それが私の望みです」
ザイデルは残念そうだったが、最終的には納得してくれた。
「せめて、公国との薬の交易路を開かせてほしい。辺境の薬草茶〈銀嶺の雫〉は、この国でも大いに需要がある」
「それは喜んで。レオンハルト、交易の話はあなたの管轄ですね」
「ああ。辺境の利になるなら、いくらでも交渉しよう」
こうして、ヴァルトハイム領とグラオス公国の交易路が拓かれることになった。辺境の薬草と南方の海産物。小さな取引だが、見捨てられていた辺境の領にとっては大きな一歩だ。
残る二人の完全石化者の治療に、私は全力を注いだ。
一人は七十代の老婆。石化から十一ヶ月と十日。家族は孫娘が一人だけ。
「おばあちゃん……目を覚まして。おばあちゃんの作るシチューが食べたいの」
孫娘の声。薬の注入。長い沈黙の後──亀裂が走った。
十一人目、覚醒成功。
残り一人。四十代の男性。石化から十一ヶ月と二十八日。限界まであと二日。
この男性には身寄りがなかった。独り身の船大工で、友人も多くなかったという。
「声が必要なのに……この人の心に届く声が」
壁画の記述が重くのしかかる。『声なき薬は、石を溶かせど心を溶かさず』。家族も友人もいない。誰の声が、この人の恐怖を解くのだろう。
「……私が、やります」
決意した。
石化した男性の前に座り、螺旋針で薬を注入した。そして、語りかけた。
「あなたのお名前はトーマスさん、と伺いました。船大工をされていたそうですね」
反応はない。
「私は薬師のリーゼルです。あなたを助けに来ました。あなたは一人じゃありません。この町の人たちが、あなたの回復を待っています」
療養所の看護師が泣きながら言った。
「トーマスさんは無口な人だけど、いつも港の修繕を無償でやってくれてたんです。この町の船は全部、あの人が直してくれた」
私はその言葉を受け取り、石化した男性に伝えた。
「トーマスさん。あなたが直した船で、漁師さんたちは今日も海に出ています。あなたの仕事は、ちゃんとこの町を支えています。だから──帰ってきてください」
沈黙。
一分。二分。三分。
何も起きない。
やはり──声が足りないのか。赤の他人の言葉では──。
その時、療養所の入口が騒がしくなった。
「トーマスのとこに行かせてくれ!」
「俺も!」
「私も声をかけたい!」
港の漁師たち、市場の商人たち、近所の住人たちが、次々と療養所に押し寄せてきた。
「トーマス、起きろ! お前がいないと船が直せねえんだよ!」
「トーマスさん、うちの屋根も直してもらう約束だったでしょう!」
「トーマス先生、新しい船の設計図、見せてくださいよ!」
石化した男性を取り囲み、口々に声をかける人々。その声は、やがて一つの合唱のようになった。
帰ってこい。待ってる。
石の表面に──亀裂が走った。
「……おま、えら……うるせえ、な」
掠れた声が、結晶の割れ目から漏れた。
十二人目。覚醒成功。
療養所が歓声と涙に包まれた。
私はその喧騒の中でそっと壁に背をつけ、目を閉じた。
聖女じゃない。私は聖女なんかじゃない。
でも──薬師でよかった。
今日ほど、そう思った日はなかった。




