第16話 結晶の中の声
治療は順調に進んでいた。
軽症から中等症の患者には、琥珀色の薬液──〈黄金の解〉と名付けた──を塗布することで、銀紋は着実に消えていった。三日間で六十名以上の患者を治療し、いずれも回復に向かっている。
だが、問題は重症者だった。
全身の結晶化が進んだ患者には、外用の塗布では浸透が追いつかない。内服薬として飲ませる必要があるが、結晶化が喉にまで及んでいる者は、薬を飲み込むことすらできない。
そして最大の難関が、完全に石化した患者たちだ。
療養所の奥の部屋に、十二人の完全石化者が安置されている。銀灰色の結晶に覆われた人の形。微かに胸が動いている者もいれば、全く動きが見えない者もいる。
「完全石化からの回復は、前例がない。母さんの手記にも、方法は書かれていなかった」
夜の調合室で、私は頭を抱えていた。
「外側から塗布しても、結晶層が厚すぎて薬が浸透しない。内服もできない。では、どうやって薬を体内に届けるか」
レオンハルトが黙って聞いている。こういう時、彼は下手に口を挟まない。私が自分で答えに辿り着くのを、じっと待ってくれる。
「……注入するしかない」
「注入?」
「結晶層に穴を開けて、薬液を直接体内に流し込む。ただし、穴を開ける際に内部の生体組織を傷つければ命に関わる。極めて繊細な作業になる」
「できるのか」
「やったことはありません。でも──」
母の図鑑を開いた。古代の壁画に描かれていた人体図を思い出す。あの精緻な解剖図は、まさにこのためにあったのかもしれない。結晶化した体のどこに穴を開ければ安全か、古代の薬師たちは知っていたはずだ。
「もう一度、遺跡に行く必要があるかもしれない」
「壁画を読むためにか」
「ええ。あの壁画には、完全石化からの回復方法も記されている可能性がある。母は時間がなくて全てを解読できなかった。でも今の私には──」
翌朝、再び銀蛇の島に渡った。今回は私一人で遺跡に入り、レオンハルトと兵士は洞窟の外で待機する手筈にした。陽炎草の忌避液を十分に準備してあるので、銀蛇蔓の脅威は前回ほどではない。
大広間に入り、壁画の前に立つ。
陽炎草の松明の光で壁画を照らし、一文字ずつ解読していく。母の解読表を片手に、古代グラオス語と格闘する。
壁画は四つの区画に分かれていた。
第一区画:銀蛇蔓の生態と毒性。
第二区画:結晶化の進行過程。
第三区画:黄金苔を用いた解毒法。
第四区画──完全石化からの覚醒法。
「あった……!」
第四区画の壁画には、結晶化した人体の図と、その特定の箇所に印がつけられていた。胸の中央──心臓の直上。
添えられた古代文字を解読する。
『石化せし者を目覚めさせるには、心の門より黄金の雫を注げ。ただし、石化より一年を超えし者は、心の灯火消えて還ることなし。門を開く道具は──』
壁画の横に、細い針のような器具の図が描かれていた。先端が螺旋状になっており、結晶層を貫通するための専用工具だ。
さらに読み進めると、驚くべき記述があった。
『銀蛇蔓は意志を持つ。蔓は宿主の心を読み、恐怖を糧に結晶を広げる。ゆえに、目覚めの儀には、宿主の心に届く声が不可欠なり。声なき薬は、石を溶かせど心を溶かさず』
意志を持つ毒。恐怖を糧にする蔓。
つまり、銀蛇蔓の結晶化は単なる化学反応ではなく、患者の精神状態に左右される。恐怖が強いほど結晶化は進み、心が平穏であれば進行は遅くなる。
完全石化した患者は、結晶の中で恐怖に囚われている。薬だけでは足りない。その恐怖を解くための「声」が必要なのだ。
壁画を全て書き写し、島を後にした。
リーベルに戻り、まず古代の工具を再現した。宰相に依頼して公国の鍛冶師に螺旋針を作ってもらう。先端の精度が命なので、三本作って最も精巧なものを選んだ。
そして──最初の試みを行った。
完全石化した患者の一人。三十代の漁師。石化してから四十日。まだ一年には遠い。胸部に微かな起伏がある。心の灯火は、まだ消えていない。
結晶層の厚さを指先で確認し、心臓直上の位置を特定する。螺旋針を当て、ゆっくりと回転させながら押し込む。
硬い結晶を貫く感触。慎重に、慎重に。深さは壁画の記述通り、三寸。
針が結晶層を貫通した瞬間、微かな温もりが指先に伝わった。生きている。中で、この人はまだ生きている。
螺旋針の中空部分から、〈黄金の解〉を注入する。一滴、二滴、三滴。
……反応がない。
壁画の言葉が蘇る。『声なき薬は、石を溶かせど心を溶かさず』。
「この方のご家族を呼んでください」
療養所の人々が慌てて動き、十分後、漁師の妻と幼い息子が連れてこられた。妻は石化した夫の姿を見て泣き崩れ、息子は怯えたように母の手を握っていた。
「奥様。旦那様に声をかけてください。結晶の中にいても、声は届きます」
「声を……?」
「旦那様は今、恐怖の中にいます。その恐怖を解くのは、薬ではなく──あなたの声です」
妻は涙を拭い、石化した夫の胸に手を当てた。
「あなた……聞こえる? 私よ。待ってるから。帰ってきて」
息子が、小さな手を父の手に添えた。
「とうちゃん。おさかな、いっしょにとりたい」
沈黙。
長い、長い沈黙。
そして──石の表面に、亀裂が入った。
胸の中央から、光の筋のように金色の亀裂が走る。結晶が砕け、剥がれ落ちていく。中から現れたのは、血の通った人の肌だった。
「──あ」
漁師の口から、掠れた声が漏れた。
「……かあ、ちゃん。む、す……こ」
妻の悲鳴のような歓声が療養所に響き渡った。
私は一歩退いて、家族の再会を見守った。頬を涙が伝う。何度経験しても、この瞬間だけは──薬師でいてよかったと心から思える。
レオンハルトが隣に来て、静かに言った。
「お前の母親が追いかけた答えは、これだったんだな」
「ええ……。毒は人を蝕むけれど、薬と声が、人を取り戻す」
完全石化からの覚醒、第一号。
だがまだ十一人が結晶の中にいる。そして石化から日が経つほど、覚醒は難しくなる。
時間との戦いは、まだ続いていた。




