第15話 石化を解く薬
銀蛇の島からリーベルに戻ったのは、その日の夕暮れだった。
公館に戻るなり、私は宰相ザイデルに借りた調合室に籠もった。黄金苔の鮮度が落ちないうちに、解毒薬の試作に取りかからなければならない。
「母さんの手記に、調合の手がかりがある」
手帳の中ほどに、母が島で走り書きした処方メモがあった。
『黄金苔の有効成分は水溶性。煮出すことで抽出可能。ただし銀蛇蔓の毒素を中和するには、苔の成分だけでは不十分。触媒が必要。壁画に描かれた古代の処方では、三つの素材を組み合わせている──黄金苔、海水の塩結晶、そして〈蛇の涙〉と呼ばれる物質』
蛇の涙。母のメモはここで途切れている。壁画を全て解読する時間がなかったのだろう。
「蛇の涙……何だろう」
私は遺跡の壁画を思い出した。あの大広間には、古代の薬学知識が刻まれていた。銀蛇蔓に関する記述もあったはずだ。だが全てを読み取る余裕はなかった。
ここで母の図鑑が力を発揮した。図鑑には古代グラオス語の解読表が載っている。そして壁画の一部は──記憶に焼きついていた。
「蛇の紋様の横に描かれていた水滴の図。あれは蛇の涙を表している。そしてその水滴の色は……銀色だった」
銀色の水滴。蛇の涙。
「まさか──銀蛇蔓の樹液そのもの?」
毒を以て毒を制す。私がずっと信じてきた原理だ。
銀蛇蔓の樹液は猛毒だが、それは濃度の問題かもしれない。極微量を黄金苔と組み合わせれば、触媒として結晶化を逆転させる──カイルの解毒で使った〈影蝮草〉の技法と、原理は同じだ。
「島で採取しておいた銀蛇蔓の樹液がある」
小瓶を取り出す。あの時、分析用に回収しておいたものだ。
調合を始めた。
黄金苔を細かく刻み、清水で煮出す。金色の抽出液が立ち昇る蒸気と共に芳香を放った。甘く、温かい匂い。この成分が結晶化した細胞を元に戻す力を持っている。
次に、海水から析出させた塩の結晶を加える。港町のありがたさで、海水はすぐに手に入った。塩結晶は黄金苔の成分を安定させる役割を果たす。
そして最後に──銀蛇蔓の樹液。
「一滴。いや、半滴」
毒の扱いは呼吸を止めて行う。瞳孔が開くほどの集中。震えは許されない。
銀色の液体が、金色の薬液に落ちた。
一瞬、液体全体が銀色に変わり──次の瞬間、鮮やかな琥珀色に変化した。
「……成功、だと思う」
琥珀色の液体。温かな光を放っている。指先に一滴垂らしてみる。じんわりとした温もりが皮膚に染み込んでいく。毒性は感じない。
だが、これが本当に石化を解けるかは、患者に投与してみなければ分からない。
「宰相閣下。患者に試してもよろしいですか」
ザイデルは迷ったが、すでに打つ手がないことは分かっていた。
「……頼む。一番軽症の患者から始めてくれ」
リーベルの臨時療養所に向かった。百人を超える患者が横たわっている。銀紋が全身に広がりつつある者、手足だけが結晶化している者、まだ初期段階の者。
最も軽症──右腕のみに銀紋が出ている若い女性を選んだ。
「お名前は?」
「……ノーラ、です。治るんですか、これ」
「治します。腕を見せてください」
ノーラの右腕には、蔦のような銀色の紋様が肘から手首にかけて広がっていた。皮膚は部分的に硬化し、指が曲がりにくくなっている。
琥珀色の薬液を清潔な布に染み込ませ、銀紋の上に塗布した。
何も起きない。
十秒。二十秒。三十秒。
周囲の視線が突き刺さる。レオンハルトも、ザイデルも、療養所の人々も、固唾を呑んで見守っている。
一分が経過した。
「あ……あれ」
ノーラが自分の腕を見て声を上げた。
銀紋の端──手首に近い部分から、色が変わり始めていた。銀色が薄れ、下から本来の肌の色が透けて見える。
「効いてる……!」
変化は加速した。銀紋が端から中心に向かって消えていく。同時に、硬化していた皮膚が柔らかさを取り戻す。
五分後。ノーラの右腕から、銀紋は完全に消えていた。
「指が……動く。動きます!」
ノーラが指を握ったり開いたりして、涙を流した。
療養所が歓声に包まれた。
「効いた! 薬が効いたぞ!」
だが、私は冷静さを保たなければならなかった。
「まだ軽症の方一人に効果が確認できただけです。重症者への投与は、もう少し濃度を調整してから。それに、完全に石化した方への効果は未知数です」
とはいえ、大きな一歩だった。
その夜、調合室で薬液の量産に取りかかった。黄金苔の量には限りがある。百人以上の患者全員に行き渡らせるには、一滴も無駄にできない。
レオンハルトが食事を持ってきてくれた。辺境にいた頃と同じように。
「食え」
「……ありがとう。あなたはいつもそうですね」
「何がだ」
「私がご飯を忘れる頃に、ちょうど持ってきてくれる」
「忘れるお前が悪い。俺は自衛しているだけだ」
パンを齧りながら、ふと笑みが溢れた。どんな状況でも、この人がいると日常が戻ってくる。
「リーゼル。お前の母親は、すごい人だったんだな」
「……ええ。すごい人でした。でも一人だった。だから──」
「だから、お前は一人じゃない道を選んだ」
その言葉に、どきりとした。
「……そう、かもしれません」
窓の外は、南方の夜空だった。辺境とは違う星座が瞬いている。
明日から、全患者への治療が始まる。黄金苔の薬が、この町を救えるかどうかの正念場だ。
だが今は、温かいパンと──隣にいてくれる人の存在が、何より心強かった。




