第14話 母の手記
手が震えていた。
母の手帳。風化しかけた革の表紙。開くと、見覚えのある丸みを帯びた筆跡が並んでいた。
「リーゼル……これは」
レオンハルトの声が遠い。私は地面に座り込み、頁をめくった。
手帳は日記形式で書かれていた。日付は十二年前。
『六月十五日。グラオス公国着。港町リーベルの学者カルステン氏から、南方の無人島に未知の植物群落があるとの情報を得る。古代遺跡との関連が疑われる。調査に向かう』
『六月二十日。島に上陸。予想以上の規模の遺跡を発見。壁画に古代の薬学知識が刻まれている。銀色の蔓状植物を確認。接触を避けつつサンプルを採取』
『六月二十二日。遺跡の大広間に到達。天井の開口部から光が差し込む空間に、金色の苔が群生。銀蛇蔓の解毒に有効と思われる。採取を試みる』
ここで筆跡が乱れている。
『六月二十二日・夜。失敗した。黄金苔を採取しようとした際、銀蛇蔓の防御反応が発動。蔓が大量に伸び、同行の学者カルステン氏が銀液を浴びた。応急処置を施すも、結晶化が始まっている。私自身も右手に微量の銀液が付着。浄化液で洗浄したが、完全に除去できたか不明』
息が詰まった。大広間の中央に立つ巨大な結晶化体──あれは、母と共に来た学者だったのか。
『六月二十三日。カルステン氏の結晶化が進行。もはや手の施しようがない。私の右手にも微かな銀紋が現れ始めた。時間がない。黄金苔の採取を急ぐ』
『六月二十四日。黄金苔の採取に成功。しかし、銀蛇蔓が黄金苔の周囲を防御するように密生しており、大量採取は不可能だった。持ち帰れたのはわずかな量。自分の解毒には使えても、カルステン氏を救うには足りない。苦渋の決断だが、撤退する』
『六月二十五日。帰路につく。右手の銀紋は黄金苔の塗布で進行が止まっている。だが完全には消えていない。体内に残留した毒素がいずれ再発するだろう。
この手帳は島に残していく。もし誰かがこの遺跡に辿り着いた時、同じ過ちを繰り返さないように。カルステン氏のことも、記録として残さなければならない。
大切なことは図鑑の方に書き写した。あとは──あとは、家に帰ってから、リーゼルへの言葉を図鑑に遺そう』
手帳の記述は、ここで終わっていた。
そして私は、母がその通りにしたことを知っている。
図鑑の頁に記された銀蛇蔓のメモ。裏表紙に滲んだ走り書き。あれは母が帰国後、残された時間の中で書き遺したものだったのだ。
図鑑を取り出し、裏表紙をもう一度見た。南方の日差しの下で改めて見ると、ランプの光では読めなかった文字が浮かび上がってきた。
『七月十日。帰国。体調は日に日に悪化している。銀蛇蔓の毒素が内臓を蝕んでいるのが分かる。黄金苔の残りを使って延命を図るが、根本的な解毒には遺跡内部での大量採取が必要。私にはもう、あの島に戻る体力がない。
リーゼルに図鑑を遺す。いつか、あの子が大きくなったら。あの子には私と同じ才能がある。毒を恐れず、毒を理解し、毒から人を救う力が。
どうか──私の果たせなかった使命を。
愛する娘へ。お前の母は、最後まで薬師であろうとした。それだけは誇りに思ってほしい』
図鑑を閉じた。
涙が止まらなかった。ぼたぼたと、図鑑の表紙に落ちる。
「母さん……」
十二年前。母は一人でこの島に来て、毒に蝕まれながら帰り、そして──。
ずっと分からなかった。母がなぜ急に死んだのか。何の病だったのか。父も医者も答えられなかった問い。その答えが、今ここで──手帳と図鑑の二つが揃ったことで、ようやく完成した。
レオンハルトが何も言わず、私の隣に膝をついた。その手が、震える私の肩を支えた。
「……泣いていいぞ」
「泣いて、ます」
「ああ。知ってる」
しばらくの間、大広間に私の嗚咽だけが響いていた。
やがて──涙が止まった。
不思議なほど唐突に、止まった。
代わりに、胸の奥で火が点いた。
母は諦めたのではない。託したのだ。私に。
「レオンハルト。黄金苔を採ります」
「……大丈夫か」
「大丈夫です。母は一人で来た。でも今、私は一人じゃない」
立ち上がり、大広間を見渡した。黄金苔は天井から差し込む光の周辺に群生している。だが、その周囲を銀蛇蔓が密に取り囲んでいた。母の手帳にある通り、蔓が苔を守るように。
「銀蛇蔓と黄金苔は共生関係にあるのかもしれない。蔓が苔を守り、苔が蔓に何かを与えている。だから蔓は、苔を奪われることを拒む」
「忌避香は?」
「効くと思いますが、ここまで密集していると煙だけでは足りない。もっと強力な忌避剤が必要です」
母の手帳をもう一度開く。最後の頁の裏に、小さな走り書きがあった。
『銀蛇蔓は〈陽炎草〉の揮発成分を極度に嫌う。遺跡の壁画にも記述あり。陽炎草は南方の海岸に自生──時間がなく採取できず。これが最大の後悔』
陽炎草。聞いたことがある。南方の沿岸部に生える、強い芳香を持つ薬草だ。
「レオンハルト、この島の海岸沿いに陽炎草が生えているかもしれません。一度外に出ましょう」
「分かった。兵士たちに探させよう」
大広間を出て砂浜に戻ると、確かに──岩場の潮だまりの周囲に、橙色の小さな花が群生していた。
「これだ……! 陽炎草!」
母が時間がなくて採れなかった薬草が、島の海岸にあった。あと一日の余裕があれば、母も気づいていたかもしれない。
運命の残酷さと、同時にその巡り合わせに感謝した。
「大量に採取してください。茎と葉の両方が必要です」
兵士たちが手早く陽炎草を集めてくれた。私はその場で簡易的な揮発液を調合する。陽炎草をすり潰し、持参していたアルコールに浸して抽出。鼻を突く鋭い芳香が広がった。
「この液を布に染み込ませて松明に巻きます。これを燃やせば、銀蛇蔓を広範囲にわたって後退させられるはずです」
準備を整え、再び遺跡の大広間へ。
陽炎草の松明に火をつけた瞬間、効果は劇的だった。
橙色の煙が広がると、銀蛇蔓が悲鳴を上げるように震え、一斉に後退した。苔の周囲を覆っていた蔓が解け、金色の群生地が露わになる。
「今です!」
私は駆け寄り、黄金苔を丁寧に、しかし素早く採取した。母の手帳に記された通り、根を残して表面だけを削ぎ取る。時間との勝負だ。陽炎草の煙が消えれば、蔓は戻ってくる。
両手いっぱいの黄金苔。母が持ち帰ったのとは比べものにならない量。これだけあれば、リーベルの全患者を──。
「リーゼル、急げ! 蔓が戻ってくる!」
レオンハルトの声。煙が薄れ始め、銀蛇蔓が再び蠢き出していた。
最後の一掴みを採り、全力で駆け出す。通路を抜け、洞窟を出て、密林を走り抜けた。
砂浜に飛び出した時、全員が息を切らしていた。だが──手の中には、金色に輝く苔がしっかりと握られていた。
「……採れた。母さん、採れたよ」
金色の苔が、陽光を受けて温かく光った。
母が果たせなかった使命。
十二年の時を超えて──娘が、引き継いだ。




