第12話 港町リーベル
グラオス公国の港町リーベルに到着したのは、ヴァルトハイムを出てから二十五日目のことだった。
青い海が広がる美しい港町──のはずだった。
現実のリーベルは、死んだように静まり返っていた。港に船はまばらで、通りを歩く人影はない。家々の窓には板が打ちつけられ、所々に「立入禁止」の赤い札が貼られている。
「王都の時よりひどいな」
レオンハルトが馬上から町を見渡して呟いた。
町の入口には検問所が設けられていた。グラオス公国の兵士が、入町者を厳しく検査している。
「何用だ。リーベルは現在、疫病により封鎖中だ」
「ヴァルトハイム領主レオンハルト。薬師リーゼル・フォーゲルを伴い、グラオス公国宰相ザイデル殿の要請に応じて参った」
レオンハルトが書簡を見せると、兵士の態度が一変した。
「お待ちしておりました! 宰相閣下がお会いになります。すぐにご案内を──ただし、患者には決して触れないようお願いいたします」
案内されたのは港を見下ろす丘の上の公館だった。宰相ヴェルナー・フォン・ザイデルは、五十代半ばの痩身の男性で、疲労の色が濃い顔に、それでも理知的な光を宿した目をしていた。
「遠路はるばる、感謝する。リーゼル・フォーゲル殿……いや、〈辺境の聖女〉殿と呼ぶべきか」
「ただの薬師です。聖女の称号は返上したつもりですが」
「謙遜を。王都の毒禍を救った辺境の薬師の噂は、南方にまで届いている」
宰相は執務室に私たちを通し、町の状況を説明してくれた。
「最初の患者が出たのは二ヶ月前だ。港の倉庫で働いていた荷揚げ人夫がある朝突然、腕に銀色の紋様が浮かんだ。三日後には全身に広がり、五日目に完全に石化した」
「石化──本当に石になるのですか」
「見ていただいたほうが早い」
公館の地下に案内された。薄暗い部屋に、それは──いた。
人の形をした、銀色の像。
いや、像ではない。かつて人だったものだ。
中年の男性が立ったまま固まっている。肌は銀灰色の鉱物に変質し、表面には蔦のような紋様が走っている。表情は苦悶に歪んだまま。だが──。
「……胸が、動いています」
微かに、本当に微かに、胸部が膨らみ、縮む。呼吸だ。
「そうだ。石化した患者は、死んでいない。生きたまま、石の中に閉じ込められている」
背筋が凍った。死よりもなお残酷だ。意識があるのかは不明だが、もしあるとすれば──自分の体が石に変わっていく恐怖を、ずっと感じ続けていることになる。
「現在、石化した患者は四十二名。症状の進行中の者が百名以上。そして──」
宰相が声を落とした。
「十日前から、隣町でも患者が出始めた。封鎖が間に合わなかった」
「感染経路は特定できていますか」
「接触感染だと思われる。患者の銀紋に直接触れた者に伝染する。ただし、全員が感染するわけではない。体力のない者、老人や子供から順に罹患する傾向がある」
私は手袋をはめ、石化した男性に近づいた。銀色の表面に触れる。冷たく、硬い。だが完全な鉱物ではない。指先に、生体組織特有の微かな弾力を感じる。
「これは……石化ではなく、結晶化です」
「結晶化?」
「毒素が体内で結晶を生成し、細胞を内側から置き換えている。だから生命活動が完全には停止しない。毒が生体を殺すのではなく──支配しているんです」
母のメモが脳裏をよぎる。『銀蛇蔓──解毒の鍵は遺跡内部の黄金苔』。
「宰相閣下。この町の近くに、古代遺跡はありますか」
ザイデルの表情が変わった。
「……ある。港から船で半日の沖合に、〈銀蛇の島〉と呼ばれる無人島がある。五年前、公国の探検隊が島に上陸し、古代遺跡を発見した。内部から珍しい植物や鉱物を持ち帰ったが──」
「その中に、蔓状の植物はありませんでしたか。銀色の蔓」
宰相が息を呑んだ。
「あった。〈銀蔓〉と名付けられ、植物園で栽培されていた。だが半年前に枯れたはずだ」
「枯れたのではなく、胞子を飛ばしたのだと思います。その胞子が人体に取りつき、体内で結晶化を引き起こしている」
全てが繋がった。
五年前の探検隊が遺跡の封印を破り、銀蛇蔓を持ち出した。植物は環境に適応しながら胞子を蓄え、半年前にそれを放出した。最初の患者が出たのは二ヶ月前だから、胞子は体内で数ヶ月の潜伏期間を経て発症する。
「解毒の手がかりは、遺跡にあります。〈黄金苔〉──母がそう記した薬草が、銀蛇の島に自生しているはずです」
「しかし、あの島は危険だ。遺跡内部には古代の罠が残っているという報告があった」
「それでも行かなければなりません。黄金苔がなければ、この疫病は止められない」
レオンハルトが一歩前に出た。
「島への船を出してくれるか。俺たちが行く」
宰相はしばらく逡巡したが、やがて決断した。
「……明朝、船を用意する。ただし護衛として公国の兵を同行させる」
「ありがとうございます」
公館を出た後、私は港を見下ろす丘に立った。夕陽に染まる海の向こうに、ぼんやりと島影が見える。銀蛇の島。母が辿り着けなかった場所。
「リーゼル」
レオンハルトが隣に来た。
「お前の母親も、あの島に行こうとしたのか」
「おそらく。でも──何かの理由で、行けなかった。あるいは行って、帰ってこられなかったのかもしれない」
声が震えた。母が南方への旅から戻った後、急速に衰弱して亡くなったこと。その原因は不明とされていたが──もし、銀蛇蔓の毒に触れていたのだとしたら。
「母は、この毒に殺されたのかもしれません」
レオンハルトは何も言わず、ただ私の肩に手を置いた。その温もりが、揺れる心を支えてくれた。
「必ず解き明かします。母の無念も、この町の人々の苦しみも」
夕陽が海に沈んでいく。
明日、銀蛇の島へ渡る。
母が追いかけた真実が、そこに眠っている。




