風鈴が鳴りやむ頃
朝、目を覚ますと、空気が変わっていた。
窓から流れこむ風が、ひんやりと頬を撫でる。
あれほど屋敷を満たしていた蝉の声は、もうどこにもない。
夏が――終わったのだ。
わたしは寝台を抜け、テラスへ出た。
軒の風鈴は、澄んだ空の下で静かに垂れている。
風が吹いても、もう鳴らなかった。
まるで、その役目をすべて終えたかのように。
「起きたのか」
振り向くと、ジークヴァルト様が立っていた。
昨夜は屋敷にいなかったはずの彼が、いつのまにか帰ってきている。
「お帰りなさいませ。……よく眠れました。とても、静かな夜で」
「そうか」
彼はわたしの隣に立ち、同じ空を見上げた。
「訊かないのか。昨夜、おれがどこにいたか」
「いいえ。訊きません」
わたしは、微笑んでみせた。
「わたし、決めたのです。知らないままで、あなたのそばにいる、と」
彼は、しばらく、わたしを見つめていた。
それから、ふっと目もとをやわらげた。
「……君は、強いな」
「いいえ。ただ、幸せなだけです」
彼の手が、そっとわたしの手をつつんだ。
その指はいつものように冷たくて、けれど、たしかに生きていた。
秋が来たら、庭に白い薔薇を植えるのだと、彼は言った。
わたしは、それを、心から楽しみにしている。
風鈴は、それきり、二度と鳴らなかった。
長い長い夏が、ようやく終わったのだ。
そして、わたしのあたらしい季節がはじまる。
金の鳥籠のなかで。
とても、しあわせに。
* * *
【幕間 ――大公ジークヴァルト】
彼女が眠る寝室の窓辺で、おれは最後の風鈴をそっと外した。
もう、鳴らす必要はない。
数えるべき名は、昨夜、すべて尽きた。
――思えば、ずいぶんと遠回りをした。
初めて彼女を見たのは、一年前のある夜会だった。
王太子の隣にありながら、その男には見向きもされず、それでも気高く背筋を伸ばしていた娘。
壁ぎわで誰にも相手にされずにいた令嬢に、ただひとり、そっと手を差し伸べていた、あの横顔。
その瞬間に、おれは決めた。
この娘を、手に入れる、と。
だが、彼女には、家も、婚約者も、帰る場所もあった。
ならば、消せばいい。
半年をかけて、おれは一冊の台本を書いた。
王太子の弱みを握り、意のままに動かした。
身寄りのない娘に恩を売らせ、しかるべき夜に彼女を告発させた。
証人を仕立て、筆跡を似せた手紙を用意し、真夏の夜会で彼女を断罪させた。
そうして、嵐の街道で独りきりになった彼女を――拾い上げた。
彼女を傷つけた者たちは、その後ひとりずつ片づけた。
風鈴が鳴るたび、彼女の過去がこの世からひとつずつ消えていった。
昨夜の最後のひとつは、あの台本をおれのために清書し、長く匿ってきた側近だった。
この筋書きのすべてを、おれのほかに、ただひとりそらんじていた男だ。
彼女の“本当の過去”を知る者は、これでもうどこにもいない。
――悪役令嬢なんて、最初からいなかった。
おれが、そう描いただけだ。
彼女は、なにひとつしていない。
ただ、おれに見初められた。
それだけが、彼女のたったひとつの“罪”だった。
外した風鈴を、おれは静かに箱へ納める。
寝台の彼女が、あどけない寝顔で、小さく寝返りをうった。
その頬に、朝の光がやわらかく落ちている。
――もう、君には、帰る場所がない。
味方も、居場所も、過去さえも、おれがこの世から消してやった。
これでもう、君には。
おれしか、いない。
おれは、その額にそっと口づけた。
守るよ。世界のすべてから。
――たとえ、その世界をこんなにも醜く歪めたのが、このおれだとしても。
窓の外で、秋の風が、鳴らない風鈴をただ静かに揺らしていた。




