表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/10

静かな夏

知らないことを選んでから、日々はおだやかに凪いだ。


風鈴は、もう鳴らなかった。


蝉の声も、いつのまにか、少しずつまばらになっている。


夏が、ゆっくりと盛りを過ぎようとしていた。


「セラフィーナ。こちらへ」


夕暮れのテラスで、ジークヴァルト様が手を差し出した。


「なんですか、あらたまって」


「髪が、乱れている」


彼はわたしの髪に、あの銀の花の飾りをそっと挿しなおした。


夕日を受けて、青の石がちらりと光る。


「ほら。よく似合う」


「……もう。それが言いたかっただけですか」


「ああ。それだけだ」


「わざわざ、呼び寄せてまで?」


「君の顔を見る口実に、これほど上等なものはない」


わたしは、思わず笑ってしまった。


冷徹と噂された大公が、髪飾りひとつのために、わたしを呼び寄せる。


そんな彼が、どうしようもなく、愛おしいと思う。


「なにが、おかしい」


「いいえ。ただ、幸せだな、と思って」


その言葉に、嘘はなかった。


これは、たしかに、本当の幸福だった。


彼が、なにをしたのだとしても。


いま、この胸を満たしているものだけは、まぎれもなく本物だった。


   * * *


夜は、ふたりでたくさんの話をした。


「閣下にも、子どもの頃が、おありだったのですね」


「意外か」


「少しだけ。ずっと、氷のように完璧なお方かと」


「……おれにも、ひとつくらいは、笑い話がある」


彼は、めずらしく、口の端をゆるめた。


そんな顔を見られる夜が来るなんて、思ってもみなかった。


「いつか、庭に、白い薔薇を植えよう」


「白い薔薇を?」


「君が、いちばん好きな花だろう」


「……よく、ご存じで」


「君のことなら、なんでも知っている」


以前なら、その言葉にぞくりとしたかもしれない。


けれど今夜は、ただ、あたたかかった。


「ジークヴァルト様。わたしを拾ってくださって、ありがとうございます」


彼の手が、ふと止まった。


淡い青の瞳が、めずらしく揺れている。


「……礼を言われることじゃない」


「それでも。言いたかったのです」


彼は、しばらく、なにも言わなかった。


やがて、わたしを、痛いほど強く抱きしめた。


「――もう、どこにも行かせない」


その声は、いつもの余裕をなくして、少しだけ掠れていた。


まるで、この幸福が指のあいだからこぼれるのを、恐れるように。


わたしは、その背にそっと手を回した。


こわい人。やさしい人。わたしの、たったひとりの人。


金の鳥籠は、こんなにも、あたたかい。


   * * *


そうして、晩夏の日々は、静かに過ぎていった。


風鈴は、あれきり一度も鳴らない。


わたしは、もう、その音のことを考えなくなっていた。


すべては、終わったのだ。


そう、思っていた。


――けれど。


ある夜のことだった。


寝室の窓を開け放って、わたしはまどろんでいた。


蒸し暑さの引いた、いくらか涼しい夜だった。


そのとき。


ちりん、と。


軒の風鈴が、ひとつ、鳴った。


わたしは、はっと目を開けた。


聞き間違いではない。


あれほど静まりかえっていた軒で、たしかに、いま、風鈴が鳴った。


心臓が、嫌な音を立てる。


――まだ。


まだ、何か、残っているの?


ぜんぶ、終わったはずなのに。


数えるべき名は、もう尽きたはずなのに。


暗い天井を見上げたまま、わたしは動けなかった。


そして、気づく。


――そういえば、今夜も。


ジークヴァルト様は、屋敷に、いなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ