静かな夏
知らないことを選んでから、日々はおだやかに凪いだ。
風鈴は、もう鳴らなかった。
蝉の声も、いつのまにか、少しずつまばらになっている。
夏が、ゆっくりと盛りを過ぎようとしていた。
「セラフィーナ。こちらへ」
夕暮れのテラスで、ジークヴァルト様が手を差し出した。
「なんですか、あらたまって」
「髪が、乱れている」
彼はわたしの髪に、あの銀の花の飾りをそっと挿しなおした。
夕日を受けて、青の石がちらりと光る。
「ほら。よく似合う」
「……もう。それが言いたかっただけですか」
「ああ。それだけだ」
「わざわざ、呼び寄せてまで?」
「君の顔を見る口実に、これほど上等なものはない」
わたしは、思わず笑ってしまった。
冷徹と噂された大公が、髪飾りひとつのために、わたしを呼び寄せる。
そんな彼が、どうしようもなく、愛おしいと思う。
「なにが、おかしい」
「いいえ。ただ、幸せだな、と思って」
その言葉に、嘘はなかった。
これは、たしかに、本当の幸福だった。
彼が、なにをしたのだとしても。
いま、この胸を満たしているものだけは、まぎれもなく本物だった。
* * *
夜は、ふたりでたくさんの話をした。
「閣下にも、子どもの頃が、おありだったのですね」
「意外か」
「少しだけ。ずっと、氷のように完璧なお方かと」
「……おれにも、ひとつくらいは、笑い話がある」
彼は、めずらしく、口の端をゆるめた。
そんな顔を見られる夜が来るなんて、思ってもみなかった。
「いつか、庭に、白い薔薇を植えよう」
「白い薔薇を?」
「君が、いちばん好きな花だろう」
「……よく、ご存じで」
「君のことなら、なんでも知っている」
以前なら、その言葉にぞくりとしたかもしれない。
けれど今夜は、ただ、あたたかかった。
「ジークヴァルト様。わたしを拾ってくださって、ありがとうございます」
彼の手が、ふと止まった。
淡い青の瞳が、めずらしく揺れている。
「……礼を言われることじゃない」
「それでも。言いたかったのです」
彼は、しばらく、なにも言わなかった。
やがて、わたしを、痛いほど強く抱きしめた。
「――もう、どこにも行かせない」
その声は、いつもの余裕をなくして、少しだけ掠れていた。
まるで、この幸福が指のあいだからこぼれるのを、恐れるように。
わたしは、その背にそっと手を回した。
こわい人。やさしい人。わたしの、たったひとりの人。
金の鳥籠は、こんなにも、あたたかい。
* * *
そうして、晩夏の日々は、静かに過ぎていった。
風鈴は、あれきり一度も鳴らない。
わたしは、もう、その音のことを考えなくなっていた。
すべては、終わったのだ。
そう、思っていた。
――けれど。
ある夜のことだった。
寝室の窓を開け放って、わたしはまどろんでいた。
蒸し暑さの引いた、いくらか涼しい夜だった。
そのとき。
ちりん、と。
軒の風鈴が、ひとつ、鳴った。
わたしは、はっと目を開けた。
聞き間違いではない。
あれほど静まりかえっていた軒で、たしかに、いま、風鈴が鳴った。
心臓が、嫌な音を立てる。
――まだ。
まだ、何か、残っているの?
ぜんぶ、終わったはずなのに。
数えるべき名は、もう尽きたはずなのに。
暗い天井を見上げたまま、わたしは動けなかった。
そして、気づく。
――そういえば、今夜も。
ジークヴァルト様は、屋敷に、いなかった。




