知らないままで、いたい
その報せが届いたのは、うだるように暑い午後だった。
蝉の声が、屋敷じゅうを隙間なく満たしている。
マレナが、一枚の紙を手に、テラスへやってきた。
その顔は、いつもよりいっそう硬かった。
「お嬢さま……とうとう、でございます」
「なにが、あったの」
「王太子殿下が――正式に、廃嫡なさいました」
わたしは、手にした果実水の杯を、危うく落としかけた。
「殿下が」
「はい。もう、王位に就かれることはございません。表舞台からも、退かれるそうで」
蝉の声が、やけに遠く聞こえた。
わたしを断罪し、婚約を破棄したあの人。
この国の次の王になるはずだった、あの人が。
いちばん最後に、崩れた。
* * *
わたしは、庭の緑をぼんやりと見つめた。
リーゼ。証人たち。わたしを嗤ったヴァネッサ。そして、殿下。
わたしを傷つけ、わたしを捨てた者たちが、いまや、ひとり残らず表舞台から消えた。
まるで大きな手が、盤の上の駒を、端から順に払っていったように。
わたしは、気づいてしまった。
もう帰る場所がない、のではない。
わたしを追い出したあの世界そのものが、どこにもなくなってしまったのだ。
戻るべき場所も、詫びるべき相手も、憎むべき敵も。
なにひとつ、残っていない。
残ったのは、この夏の屋敷と。
わたしを拾い、わたしのために世界を片づけた、あの人だけ。
ジークヴァルト様だけが、いつのまにか、わたしの世界のすべてになっていた。
* * *
その夜、テラスに出た。
蝉はもう鳴かず、夏の夜は蒸し暑く凪いでいる。
わたしは、軒の風鈴を見上げた。
このごろ、風鈴はめっきり鳴らなくなっていた。
あれほど鳴りしきっていた音が、いまは数えるほどしかしない。
まるで、もう、数えるべき名が尽きてしまったかのように。
「――難しい顔を、しているな」
背後から、いつもの声がした。
振り向くと、ジークヴァルト様が立っている。
「なにか、聞きたいことがあるんじゃないか」
彼は、静かにそう言った。
まるで、わたしの心のなかを見透かすように。
「聞けば、答えてくださるのですか」
「ああ。君になら、なんでも」
その言葉に、嘘はないと、わかった。
あの手帖のことも。凶事の夜の行方も。風鈴が、なにを数えていたのかも。
訊けば、この人はきっと、ぜんぶ話してくれる。
「では……ひとつ、だけ」
「なんだ」
彼の声が、わずかにやわらいだ。
わたしは、口を開きかけて――そのまま、閉じた。
風鈴のことを訊けば、この夏の、やさしい嘘が、ぜんぶ終わってしまう。
「……いいえ。やっぱり、やめておきます」
わたしは、彼を見上げた。
そして――静かに、微笑んだ。
「いいえ。なにも、ありません」
「……いいのか」
「はい。わたし、いまが、幸せですから」
それは、生まれて初めて、自分からついた優しい嘘だった。
ジークヴァルト様の目が、ほんの少しだけ、揺れた気がした。
彼は、わたしをそっと抱き寄せた。
「――そうか」
その声は、どこか、泣いているようにも聞こえた。
わたしは、目を閉じて、彼の胸に頬をあずけた。
知らないままで、いたい。
耳をふさいで、この腕のなかだけで、生きていきたい。
たとえ、それが。
差し出された、金の鳥籠だとしても。
蒸し暑い夜気のなかで、わたしは、その籠の扉を、自分の手でそっと閉じた。
軒の風鈴は、その夜、とうとう一度も鳴らなかった。




