見て、しまったんだね
わたしは手帖を胸に抱いたまま、振り返った。
ジークヴァルト様は、扉のところに立っていた。
やはり、責める色はない。
ただ、静かにわたしを見ていた。
「これは……あなたが、書いたのですか」
「ああ」
「わたしの、すべてを。断罪も、婚約破棄も。……ぜんぶ?」
「そうだ。おれが、書いた」
否定は、なかった。
言い逃れも、弁解も。
彼は、ただまっすぐに認めた。
わたしの膝が、震えた。
「どうして……どうして、こんなことを」
「君を、手に入れるためだ」
彼はゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
「言っただろう。君を傷つけた世界を、君のために片づけただけだよ」
「片づけた、なんて……あなたが、リーゼを、殿下を、あの人たちを、そう仕向けたのでしょう」
「そうだ」
「あなたのせいで、わたしは、なにもかも失ったのに!」
初めて、声を荒げた。
けれど、ジークヴァルト様は少しも動じなかった。
「失う? ちがうよ、セラフィーナ」
彼はわたしの前で、片膝をついた。
そして、震えるわたしの手を両手で包む。
「君はあのままなら、愛のない王太子に嫁がされていた。飾りのように扱われ、いずれ飽きられて捨てられていた」
「それは」
「あの者たちは、放っておいても、いつか必ず君を傷つけた。おれは、その順番を――少しだけ、早めただけだ」
静かな声だった。
なのに、そのひとことひとことが、逃げ場を丁寧に塞いでいく。
「あなたは、こわい人です」
「ああ。そうかもしれないな」
彼は、うっすらと微笑んだ。
「それでも、この世で君を本当に選んだのは、おれひとりだ。それだけは、嘘じゃない」
わたしは、なにか言い返そうとして――言葉を失った。
だって、そのとおりだったから。
父も殿下も友人たちも、みなわたしを捨てた。
あの断罪の夜、雨の街道で、たったひとりわたしの前に膝をついたのは。
このこわい人だけ、だったのだ。
「わたし……」
声が、掠れる。
「わたし、もう、どこにも……帰る場所が、ないのですね」
「ああ」
彼は、痛ましいほど優しく頷いた。
「もう、どこにもない。……おれのほかには、どこにも」
その言葉は、呪いのようで。
そして、たまらなくあまい、救いのようでもあった。
わたしは、彼の手を振り払おうとした。
けれど、指は動かなかった。
――この手を離してしまえば。
わたしは本当に、この世でひとりぼっちになる。
それが、わかってしまった。
「セラフィーナ」
彼の腕が、そっとわたしを包んだ。
「なにも考えなくていい。つらいことは、ぜんぶ忘れていい」
「でも……」
「知らないままでいれば、君は幸せでいられる。おれが、そうしてあげる」
わたしは、彼の胸に額をあずけた。
問い詰める言葉は、まだ胸のなかに、いくつも残っていた。
けれど、それを口にするのが。
だんだん、こわくなくなっていくのだった。
その夜。
夏の闇は、しんと蒸し暑く凪いでいた。
蝉も鳴かず、あれほど鳴っていた風鈴も、ひとつも鳴らなかった。
まるで、わたしの問いが、彼の腕のなかで静かに眠ってしまったかのように。




