境界杭
ポチは久世に殺されかけた。
僕を振り落とした罪で。
けれど青函トンネルで、僕たちを助けてくれたことを告げて、説得に至った。
お陰で僕は、登山をせずに済んだ。
栃木の山間部。
昨日、境界杭を見た。
あれは山小屋ではない。
深い緑の中に、不釣り合いなほど整然とした建物が現れた。
白亜の洋館。人の手で管理され続けてきた、こじんまりとした別荘だ。
地上には、二つの区域があった。
青い蔦に飲み込まれようとしている部分と、不自然なほど時間を保っている部分。
それはきっと、この星の気紛れだ。
そしてそこは、その気紛れを、手懐けている側の、静かな要塞のようだった。
僕たちはポチから降りた。
久世が門扉を潜る。僕はポチの手綱を引いて、後に続いた。
玄関までの、短いアプローチを歩く。
砂利は均され、雑草は刈られていた。
その時だった。
前を歩いていた久世が、ぴたりと足を止めた。
「坊ちゃま」
低く、鋭い警告。
反射的に、僕も立ち止まる。ポチも止まった。
久世の視線は、玄関ではなく、足元の芝生に向けられていた。不自然な平坦さ。芝の生え方が、周囲とわずかにずれている。一度、掘り返してから、丁寧に埋め戻したような。
――地雷? まさか。
そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。
直後、玄関のドアが乱暴に開いた。
「動くんじゃないよ!」
しわがれているが、鼓膜を震わせるほどに毅然とした声。
そこに立っていたのは、散弾銃を構えた一人の女性だった。
白髪を美しく夜会巻きに纏め、上半身は質の良いシャツ、下半身は動きやすそうなジーンズという、知性と野蛮が同居したかのような出で立ちだ。
老いの気配は確かにある。けれどその瞳は、濁った老人のそれではない。
銃口は確実に久世と、そして僕を狙っている。
久世は両手をゆっくりと上げ、執事としての完璧な、そしてこの異常な状況に相応しい「最初の邂逅」を演じてみせた。
「これは失礼いたしました。――マダム」
柔らかな声色。無害を訴えるには、落ち着きすぎている。
銃口が、僕から離れ、久世の中心に狙いを定めた。
「気味が悪い。森の中を通ってきて、靴に汚れ一つ付いていない」
引き金に掛けられた指は、まだ動かずにいてくれている。
「それにあんた――足元のそれに気づいたね。何者だい?」
空気が張り詰める。
僕は喉を鳴らした。
声が出ない。
久世が、微かに首を傾げる。
「マダムの観察眼に感服いたしました。極めて合理的な防衛方法です」
女性の目が細められた。
「質問に答えな」
静かな圧力。
沈黙が、場を支配する。
風の音すら、遠い。
久世は一瞬だけ、僕の方へ視線を流した。
そして、再び女性へと向き直る。
「敵――では、ありません」
事実だ。
けれど僕には、否定も肯定もできない。
久世は続けた。
「我々は、無用な争いは望んでおりません。少なくとも、現時点では」
含みを持った言い方だ。
これでは話が、一歩も前に進まない。
久世になど、任せてなどいられない。
僕は息を吸い込んだ。
「……失礼」
我ながら、落ち着いた第一声。
物腰は、柔らかに。けれど、堂々と。
「ご婦人。初めまして。僕は、御子柴怜央と言います」
女性の眉が、わずかに動く。
「ミコシバ……」
銃口はそのまま、僕を値踏みするように見る。
「ミコシバ……ああ、ミコシバグループか? 何度か広告を見たことはあるが。確か――掘削会社、だったか? けど……中の人間の顔までは知らないね」
一歩も動かず、女性は続ける。
「けど、そうか。どこぞのハッちゃけたパーティーピーポーが阿保面下げて舞踏会にでも参加するのかと思ったが。金持ちのご子息と……確かにあんたのその恰好は、執事にしか見えないね」
やがて、女性は短く息を吐く。
「まあいい。言葉が通じるんなら、構わないさ。ただし――おかしな動きをしてごらん。眉間に穴が開くよ」
そう言って女性は、中に招くように手招きした。
「さ、坊ちゃま」
伸ばされた手を取り、玄関前のアプローチに埋められた地雷を避けながら、僕は歩いた。




