眠り
数日が経った。
最初にあてがわれた女性は、名前をサキといった。
話してみれば、彼女はどこにでもいる、少し読書が好きなだけの、普通の女の子だった。
彼女はぼそりと、「アントン・チェーホフの『桜の園』が好きだ」と、言った。そのとき僕は、ひどく奇妙な心地がした。
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主人公の貴族ラネーフスカヤ夫人は、借金で破産寸前。そのせいで、屋敷と広大な桜の園を手放さなければならない状況だ。
周囲は「土地を別荘地にして稼ごう」と、現実的な提案をするが、夫人は想い出の詰まった桜の園を、手放す決断ができない。
やがて競売の日が来て。
想い出の桜の園を買ったのは、かつてこの家の農奴の子だった――今は商人のロパーヒンだった。
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――縁起でもない。
ふいに、目を覚ました僕の背中の産毛が、ぞわわっと逆立った。
埋められた窓の隙間から、光はない。
ゴォォッという――森を走る風の音がした。
耳を澄ませると、「キュワッ。キュイキュイッ」と、なにかの鳴き声が聞こえる。
渡り鳥だろうか……。
「どうした?」
隣で、低く穏やかな声がした。
僕は、自分の意志か、それとも本能か。自分に腕枕をしてくれているその逞しい腕に、縋るように頭を押し付けた。
「ううん。大丈夫です。鷹宮さん」
彼に、何かされたわけではない。
世俗的な、いやらしい関係でもない。
彼は、歳の離れた兄の様な存在だ。
僕は、一人っ子だったから。
酒を飲まないと眠れなくなった僕を気遣って、頭痛薬を用意して、隣で寝てくれているだけだ。
きっかけは、ここでの初めて夕食。焼酎をグラスに一杯、ロックで飲んで倒れた僕を、ベッドまで運んでくれたのが最初らしい。その時に僕が酔っぱらって、彼の腕を掴んで離さなかったせいで、困ってしまって仕方なく、一緒に寝てくれた――そう、聞いた。
「……まだ、夜は明けていないぞ」
ベッドライトの暗い調光の中、鷹宮の無骨で大きな手が、僕の髪をゆっくりと漉いた。
僕は目を閉じ、鷹宮の胸に顔を埋めた。
心臓の音が、一定の速さで聞こえてくる。
どく、どく、と。
規則正しくて、ぶれない音。
ここにいれば、大丈夫だ。
身体のどこかが、そう勝手に判断しているみたいだった。
「眠れそうか」
低い声が、耳元に落ちてくる。
「……はい」
嘘ではない。
少なくとも、前よりは眠れる。
酒を飲んで、こうして隣に誰かがいれば。
誰か――ふと、僕は誰かの腕の感触を思い出しかけて……
その顔が、黒いマジックで塗り潰されていく。
「……?」
何を、思い出そうとしていたんだろう。
どこかに手を伸ばす前に、それは力尽きた。
目を閉じると、僕は鷹宮の体温に溶けていった。
大丈夫。
ここは、安全だ。
鷹宮の指が、ゆっくりと僕の頭を撫でる。
「……いい子だ」
心地いい言葉。
僕は安堵した。




