日常
二日酔いだ。
頭を万力で締め付けられているような重さと、胃の底からせり上がってくる不快感。
昨夜、逃げるように煽った琥珀色の液体は、僕から誇りを奪っただけで、救いはもたらさなかった。
僕は、湿った空気の籠もる個室を出て、吹き抜けの手すりに寄りかかった。
自由にしていいと言われたものの、ここは開かれた世界ではない。施錠された無数のドアと、迷彩服の学生たちの視線に囲まれた、巨大な鳥籠だ。
唯一、正面ホールのガラス壁だけが、外の世界を切り取って見せている。
どこまでも無関心に広がる青い空。風さえも死んだように動かない、深い森。
「怜央君」
背後から、不意に声を掛けられた。
知っているような声。どこで聞いたのか。
振り返った僕の目に最初に入ったのは、はだけたアロハシャツ。
それから、露出した臍の下に刻まれた、調律の「痕」。
僕は、そいつの顔を見た。瞬間――息を呑んだ。
知っている。
社交会で、シャンパングラスを片手に、何度か挨拶を交わしたことがある男だ。
先代の莫大な遺産を継ぎ、弱冠三十代で事業を数倍に拡大させ、時代の寵児ともてはやされていた、若き経営者。
「坂木――さん?」
彼は、「うん」と頷き、僕の隣に肩を並べた。
彼の体からは、昨夜の僕と同じ、安っぽいアルコールと、饐えた脂の匂いが漂ってくる。
「元気――と訊くのは……違うか」
坂木の言葉には、乾いた砂がこぼれ落ちるような虚しさがあった。
かつて、彼を包んでいた最高級のシルクのスーツも、洗練された野心も、一欠片さえ残っていない。
そこに立っていたのは、他人の顔色を窺うように肩を窄める、一匹の家畜だった。
伸びた爪の先が、不潔に黒ずんでいる。
「まさか、こんなところで、御子柴のご子息に会えるとは――思ってなかった……」
後半の声は、力なく消え入るようだ。
以前の彼は、こんな話し方をする人では、なかった。
もっと朗々と、世界を支配するかのような響きで、自信に満ち溢れていた。
「――この世界のこと、知っているかい?」
彼の問いに、僕はただ首を横に振った。
「どうして……こうなっちゃったんだろうって」
遠くを見つめる坂木の瞳は、亀裂を入れたガラス細工のように、霞んで見えた。
「最初はね、理由を考えていたんだ」
その言葉には、鷹宮という「主人」に魂を明け渡した者だけが持つ、不気味なまでの穏やかさがあった。
「ここはね、御子柴君。……『楽園』なんだよ。そう……鷹宮くんに、『調律』されるたびに、僕たちは登っていくんだ」
坂木は、震える指先で、自分の臍の下の「痕」を愛おしそうになぞった。その仕草には、虐げられることに悦楽を見出すような、背徳的な色気が覗いて見えて、僕はぞっとした。
「もうすぐ、きみにも分かるはずだ」
彼の瞳は、どろりと濁り始める。
「どうせ、人はいつか死ぬ。この世界は、瞬きを繰り返している間の夢に過ぎない。なら、苦しみより、快楽の方がよっぽどいいと思わないかい? 浅く長い快楽ではなく。短くとも、深く濃い快楽で、その時を迎える方がいい。僕は、選んだんだ。選ばせてもらったんだよ、鷹宮くんに」
それは、崇拝に似ていた。
自らの尊厳を切り売りして、その代価として与えられる淫らな安寧。与えられるものだけを口にして。世界には、それしかなくて。
目の前の男は、思考を放棄した、肉の塊へと成り果てていた。




