施設
消毒液の匂い。
体は、コンクリートに打ち付けられたように動かない。
数万ボルト――もしかすると、もっとあったかもしれない電流の残滓が、泥のようにへばりついている。
僕は、冷たい床の上に横たわっていた。
目は開いているはずなのに、なにも見えない。
暗闇に目を凝らした。
けれど、網膜が焼き切れたのか――暗いままだ。
近くに、久世の気配はない。
声を出そうとしたとき、どこか近くで、重厚な鋼鉄のドアが開く音がした。
突如として、視界が弾ける。
それは、僕の瞳から暗闇の安息を奪い去り、周囲を無慈悲に照らし出した。
天井に、蛍光灯の光。
首をのっそりと横に動かすと、鉄格子が目に入った。
その向こうにあるのは――檻?
久世の姿は見えない。
僕は頭上に目を遣った。
近い天井。違う。
僕を囲む六面すべてが、冷たい金属で作られている。ここも――檻なのだ。
足音がこちらへやってくる。
コンクリートに、重い衝撃音。
僕を護っている囲いの前で止まった。
黒いブーツ。迷彩服で武装した男が二人。
無言のまま、扉が開く。
僕は引きずられるように檻から出された。
そのとき初めて、自分の手首に手錠が嵌められていることに気づいた。
そこに、金属製のリードが掛けられた。
「歩け」
前方の男が言う。
僕は動けなかった。
動けるわけがない。こんなの――
次の瞬間、太腿に鈍い衝撃。
身体が前によろけた。だが、倒れ込むことさえ許されない。引き戻され、僕は操り人形のように不格好に踏み止まった。僕を蹴った後ろの男が、僕の腰に巻かれた縄の先を、持っていたせいだ。
歩くことを、強制される。
こんなの――犯罪者以下の扱いだ。
彼らにとって僕は、「御子柴の御曹司」ではなく、ただの「重い荷物」に過ぎないのだ。
久世はどこだ。どこに行ったんだ。
久世がいれば、こんな扱い――
そういえば、ポチはどうした。
もしかして……逃げたのか?
僕を置いて。
「……離せ、僕は――」
言いかけた言葉は掻き消えた。
廊下を抜けた先に広がる光景に、僕は目を疑った。
吹き抜けの玄関ホール。
壁には無造作にスプレーで描かれたグラフィティと安っぽいミラーボールの光り。
それから、爆音を鳴らす大型スピーカーと、人々の黄色い声。それが、「夜」の歌を覆っている。
転がる高級酒の瓶。肉を焼く煙と、香水の匂いが混ざり合って、僕は咳込んだ。
ここは――なにかの、施設だろうか。
僕は、狂乱の渦を横目に、二階へと続く階段を無理やり登らされた。
二階の幅広い通路。そこには、一階の混沌を支配するロイヤルシート――革張りのカウチソファが置かれたあった。さながら、オペラハウスのバルコニーか、ギャラリーのようだ。
ソファの周りには、水着姿の男女が、侍るように数人。
剥き出しの内腿や臍の辺りには、僕と同じ「痕」が、刺青のように刻まれていた。
ソファの真ん中。そこに座っている男だけには、その「痕」が、今のところ、見当たらない。上半身は裸だが、下半身は黒い革のパンツで隠れている。
背丈は久世と同じくらいだろうか。けれど、一回りは大きく見えた。
久世が鋭利なナイフなら、この男は岩盤の塊のようだ。
日に焼けた粗野なくせ毛。口元には無精ひげ。僕の周囲には一人としていなかった。だらしなく、それでいて、圧倒的な暴力の匂いを纏った男だ。
三十代だろうか。
僕は、そいつの前に強引に座らされた。背後の男が、僕の肩を掴み、床に押し付けたのだ。
許せない。
僕は、無精ひげの男を見据えた。
「久世はどこだ」
男は鼻で笑った。
「誰だそりゃ。お友達か?」
「執事だ」
「執事――!?」
下品な男は、信じられないものを見たかのように目を丸くした。
剥き出しの暴力が支配するこの世界において、こいつにとってそれは、死語よりもさらに遠い、お伽話の単語だったのかもしれない。
「だっはは――!! おい、お前ら。聞いたか!? 執事だってよ!」
下卑た笑いが、ホールに反響する。周囲の男女たちも、それに倣うように下劣な声を上げた。
「どこにいるのかと、僕は訊いているんだ」
「あー……じゃあ、あいつか? あいつなら」
下品な口元が、歪な笑みに変わる。
「もう殺したぞ」
「殺し――!?」
心臓が、氷に直接、触られたような感覚がした。
「ああ。こっちに運んでいる途中で、なんだか急に暴れ出したんだよ……で、殺した。ボルトアクションライフル。AWM8.6mm、338ラプアマグナム弾――まあ、言っても分かんねえか」
男は、自分のこめかみに指を二本充て、笑う。
「バァンッ!!」
僕の体が一瞬、強張った。
「――要は、狙撃銃で頭をぶち抜かれたんだ。《《在来種》》だろうがなんだろうが、頭抜かれりゃ終わりだ。ついでに馬は――」
男は顎をしゃくった。
「あそこでバーベキューになってるぞ」
一階の、火が点いている大型のコンロ。
「香ばしい匂いがするだろう? 肉の焼けるい~い匂いだ。ジュ、ジュワア」
僕の体は意志に反して、勝手にがたがたと震えだした。
嘘だ。嘘だ。嘘だ――
死ぬわけがない。あの久世が。
こいつは僕を、脅しているんだ。
恐怖なんかで、こいつに屈するつもりはない。
けど――一階から漂ってくるあの煙が、急に呪わしい死の香りのように思えた。パチパチと脂の爆ぜる音が、断末魔の悲鳴にも聞こえる。
僕を助けてくれた、あの葦毛の温もりを思い出し、吐き気が胃を突き上げた。
吐くものか。
こんなところで。
「まあ、執事ってのはお友達でもねえし、どうせただの従業員だろ?」
憐みか、蔑みか。
男は僕を見下ろした。
「あいつもなあ……跪いて命乞いでもすりゃ、考えてやったんだけどなあ」
男は、獲物をいたぶる猫のような薄笑いを浮かべる。
信じない。こんな男の言うことなど。
「そういえばお前、調律の痕があったよな。俺が、引き継いでやってもいいんだぜ」
ソファから身を乗り出し、男は僕の顔を覗き込む。
その体から放たれる、酒と煙草の混ざった、野生動物のような濃密な体臭。
臭くて、窒息しそうだ。
「金持ちも、上流国民も、今じゃみーんな俺に跪く。
お前もご貴族様だったんだろう? 跪いて、俺の靴を舐めろ」
その瞳が琥珀色に変わって、僕を見下しながら、縦に裂けた。




