箱舟
水嵩は増すばかりだ。
久世は全体重を、僕に乗せている。
首筋に、規則正しい――けれど、浅い呼吸が触れる。
『食べてしまいそう』とか、『食べたい』とか。
言っていたくせに。
そう言ったあとは苦しそうにして。
――その腕は、僕を抱き返してこない。
お腹が空いて、食欲が抑制できないのなら……。
片腕くらいなら――うん、利き手じゃなくて、できれば……。
いや、でもきっと痛いな。
指、とか……だめだ。なんか、リアルに痛くなってきた。
いっそ、頭だったら一瞬で。
ぶるっと悪寒が走る。
恐怖する妄想が、背中を駆け上がったからではない。
膝をついている僕の腰に、水が迫っているのだ。
冷たい感触が、僕の背筋を何度も這い上がる。
こんな世界だ。いっそのこと死んだ方がマシかもしれない。
けれど僕は、泳ぎが得意だ。
皮肉なことに、財閥家の子息として叩き込まれた数々の英才教育が、この極限状態で僕に、冷静な生存戦略を与えていた。
水が満ちれば、久世の体は浮く。背負って、押して、進めばいい。
そう考えた、そのとき。
背後から、水を掻き分ける音がした。
ざぶ、ざぶ――と。
人間の歩幅ではない。
僕は息を詰めた。
久世の手から滑り落ち、水の中に沈んでいた軍用ナイフを指先で探り当てる。硬い鉄の感触を握りしめ、僕は久世を庇うように構えた。
この状況で、侵食されたあの「青」に襲われたら、どうやって立ち向かえばいい。
どうやって――
心臓が、鼓膜を破らんばかりに脈を打ち始める。
僕は、恐る恐る振り返った。
懐中電灯が、湿った壁を照らしている。
何も見えない。音だけが、反響している。
体勢を替え、久世の頭を僕の左肩に引き寄せて、闇からやってくる「死神」に、神経を研ぎ澄ませた。
食い殺されるにしても、せめて一刺し、この絶望に抗ってやる。
肺が、冷たい水圧に押し潰されそうで苦しい。
そのときだ。
懐中電灯の、消え入りそうな光の輪の中に現れたのは――
「え?」
それは、葦毛の馬だった。
「――ポチ?」
生きてた。解体されていなかった。
ポチは、申し訳なさそうに鼻を鳴らし、濡れた鼻先を僕の頬にそっと擦り付けてきた。
その鼻先の温かさが、沈みゆくこのトンネルの中で、僕には箱舟に思えたんだ。
ポチに協力してもらい、久世を鞍の上に乗せた。
僕はあぶみに足を掛け、ポチの背に跨った。
意識のない久世の体を支え、僕はポチとともに、一歩、また一歩と闇を蹴立てる。
ああやっぱり……名前――ポチじゃなくて、ノアにすればよかったかな。
トンネルを抜ける。
――そこは、青森。




