本
久しぶりに、泥のような眠りの底に、深く、沈んでいた。
ツクツクボウシの、あの狂おしいほど規則正しい鳴き声が、耳栓を無視し、脳の奥深くまで浸食してくるようだ。
僕は、アイマスクを外した。
埃の舞う事務所の天井。
窓から差し込む、白く濁った太陽の光。
セミの声だけが異様に大きく、世界は死んだまま動いていない。
……生きている。
僕はまだ、僕の形のままで、ここにいる。
「……おはようございます、坊ちゃま」
声は上から降ってきた。
隣りに腰を下ろしている久世は、すでにいつもの完璧な燕尾服を身に纏っていた。襟元も、鉄の規律を取り戻したように、固く閉じられている。
「よく眠れましたか?」
――うん。と、喉が動いた。
声になる寸前。僕は起き抜けの脳で、必死にそれを止めた。
きのう、久世に謝罪した記憶が、屈辱となって喉を通った。
僕は、寝袋から出られないでいた。
「ゆいさんは? 鍵は? 開いているのか?」
久世は、紙の本から視線を外さない。
ページを捲る指先には一点の迷いもなく、その光景だけを見れば、どこかの静かな書斎の光景と見紛うほどだ。
「――開いております」
視線は本に落ちたまま。
僕は、なぜか胸の奥がざわつくのを覚えながら、息を整えた。
久世に見られている感覚が、消えない。
視覚ではない、もっと別の器官で観測されているような、不快感。
それから逃げるように寝袋を這い出て、僕は上半身を起こした。
久世の手にある本。
背表紙から覗くタイトルは、彼の長い指に遮られて、断片的にしか読み取れない。
『――jer――――――――ger』
ちらりと、中身を盗み見てみた。
アルファベットに似た文字が並んでいる。
けれど、英語でも、ドイツ語でもない。
――――読めない。
それが、腹の底に、静かな苛立ちを落とした。
この男は、僕の知らない言語で思考し、僕の理解できない理で、動いているのだろうか。
けれど、「何を読んでいるんだ?」――なんて、絶対に聞きたくない。
「さあ、ゆいさんのところに行こう。彼女を置いてはいけないし、散策をするなら、手伝うんだ」
僕は自分に言い聞かせるように、一層強く、トレッキングシューズの紐を締め直した。
久世は答えず、ただ静かに本を閉じて、その未知の言語の本を、まるで聖典のように、大切に懐へとしまった。




