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R15 終末世界で、執事は僕を調律する。~人外執事×傲慢坊ちゃま~  作者: 島田まかろん三世
第一章 北海道

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密室のリゾット

 ゆいによって外から南京錠を下ろされた、狭い事務所。簡素な机の上には、防災マニュアル。壁には、色褪せたポスターが貼られただけの、密閉された空間。埃の匂いと、古い紙の湿った匂い。

 侘しさが、足元から這い上がってくるようだ。


 窓の外には、バリケードの一部となった軽自動車の屋根が見える。その上に積み上げられたプラスチックケースが、日差しを切り刻むように影を落としていた。


 この静寂の中で、久世が動いた。

 久世はゆっくりと、あの完璧に整えられていたネクタイの結び目に指をかける。

 結び目が緩み、布が擦れる微かな音が、やけに大きく響いた。


 久世は、この旅が始まってから初めて、襟元を崩した。

 露わになった首筋の、白く滑らかな質感に、僕は無意識に唾液を飲み込んだ。


「坊ちゃま」


 低い声。

 僕は喉を、ごくりと鳴らす。


「これほど落ち着く場所は、札幌を出て以来――初めてではありませんか?」


「……そうだな」


 喉が少し、乾いているんだ。

 久世の声が、見えない糸のように、僕の喉元を締め付けている。


 久世は、くつくつと愉し気に笑った。

 その瞬間、胸の奥で、理由の分からない圧迫感が生まれた。

 酸素が足りない。追い詰められている――?


「……では」


 久世が、儀式の始まりを告げるように静かに口を開く。


「始めましょう」


 背筋に、ぞわりとしたものが走った。

 何を――? とは、聞けなかった。

 僕は咄嗟に、自分の侵食された右腕を掴んだ。


 だが、久世が始めたのは――


 床に置いたバックパックを開き、机の上にポータブルのガスコンロを取り出す。

 点火音。

 青白い炎が、静かに揺れた。


 シュン、と。

 お湯が温められる音が、密閉された事務所に染み込んでいく。


 久世はアルファ米を取り出し、慣れた手つきでリゾットを作り始めた。

 固いチーズを、果物ナイフで削いでいく。洗練された動き。


 狭い事務所に、チーズとコンソメの香りが立ち込める。


 胃が、きゅっと縮む。

 空腹のせいだけじゃない。


 鼻歌が聞こえてきたのだ。小さく、機嫌のいい、聞いたこともない旋律。

『夜』ではない。久世が――あの久世が、歌っている。


「久世」


 声が、少し掠れた。


「何でお前――そんなに楽しそうなんだよ」


「そう見えますか?」


 鍋の中をかき混ぜながら、久世は穏やかに答える。


 椅子に座り、身を強張らせる僕の前。傷だらけの机の上に、久世は、場違いなほど真っ白なランチョンマットを、華麗にさっと敷いた。


 銀のティーカップに、透き通った琥珀色の紅茶を注ぐ。

 カチリ、と硬質な音を立てて、磨き抜かれたスプーンが並べられた。


「さあ坊ちゃま。召し上がれ」


 差し出されたリゾットからは、食欲をそそる香りが立っている。

 久世は僕の隣に立ち、彫像のような佇まいで、僕が最初の一口を運ぶのをじっと待っていた。


 まずは、紅茶で乾いた舌を潤そう。

 ミルクが欲しいところだが、望むべくもない。

 代わりに、たっぷり入れられた砂糖の甘さが、疲弊した脳に心地よく広がっていく。


 銀の皿に盛られたリゾットに、スプーンを入れる。

 一口。


 ああ――懐かしい味だ。


 それは、世界が壊れる前、御子柴みこしばの邸で僕が愛した、あの厨房の味そのものだった。


 アルファ米とわずかな備蓄品で、なぜこれほどの再現ができるのか。

 喉を通る熱が、僕の強張った心をゆっくりと、けれど確実に溶かしていく。


 悔しい。憎いはずなのに、この男が与えてくれる「完璧な日常」に、僕の肉体は歓喜の声を上げていた。


 口が、勝手にもう一口を求める。

 咀嚼し、飲み込むたびに、僕の中の「人間としての誇り」が、静かに、音もなく折れていく気がした。


「そうだ――ゆいさんにも分けてあげよう」


 瞬間、部屋の酸素がすべて張りついた。

 久世が放った気配で……。


「坊ちゃま」


 耳元。久世の声は、地を這うように低く、そして、どんよりとして聞こえた。

 その唇が、僕の耳たぶをかすめるほどの間近で――熱い吐息が肌を叩く。


「これは……私が、坊ちゃまのためだけに作った――食事です。残りは私がいただきます。坊ちゃまにこれだけ尽くしている私に……坊ちゃまは、何を食べろと仰るのですか?」


 僕は、スプーンを持ったまま、固まる。

 背後から覆いかぶさるような久世の影が、僕という個を、飲み干そうとしている。


「……うん。ごめん」


 僕は。

 僕は今。

 久世に――謝ったのか?


 あるじは僕だ。

 久世は執事だ。


 なにが起きている――?

 理解できないまま、僕は久世の望むままに、最後の一匙ひとさじを口に運んだ。

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