密室のリゾット
ゆいによって外から南京錠を下ろされた、狭い事務所。簡素な机の上には、防災マニュアル。壁には、色褪せたポスターが貼られただけの、密閉された空間。埃の匂いと、古い紙の湿った匂い。
侘しさが、足元から這い上がってくるようだ。
窓の外には、バリケードの一部となった軽自動車の屋根が見える。その上に積み上げられたプラスチックケースが、日差しを切り刻むように影を落としていた。
この静寂の中で、久世が動いた。
久世はゆっくりと、あの完璧に整えられていたネクタイの結び目に指をかける。
結び目が緩み、布が擦れる微かな音が、やけに大きく響いた。
久世は、この旅が始まってから初めて、襟元を崩した。
露わになった首筋の、白く滑らかな質感に、僕は無意識に唾液を飲み込んだ。
「坊ちゃま」
低い声。
僕は喉を、ごくりと鳴らす。
「これほど落ち着く場所は、札幌を出て以来――初めてではありませんか?」
「……そうだな」
喉が少し、乾いているんだ。
久世の声が、見えない糸のように、僕の喉元を締め付けている。
久世は、くつくつと愉し気に笑った。
その瞬間、胸の奥で、理由の分からない圧迫感が生まれた。
酸素が足りない。追い詰められている――?
「……では」
久世が、儀式の始まりを告げるように静かに口を開く。
「始めましょう」
背筋に、ぞわりとしたものが走った。
何を――? とは、聞けなかった。
僕は咄嗟に、自分の侵食された右腕を掴んだ。
だが、久世が始めたのは――
床に置いたバックパックを開き、机の上にポータブルのガスコンロを取り出す。
点火音。
青白い炎が、静かに揺れた。
シュン、と。
お湯が温められる音が、密閉された事務所に染み込んでいく。
久世はアルファ米を取り出し、慣れた手つきでリゾットを作り始めた。
固いチーズを、果物ナイフで削いでいく。洗練された動き。
狭い事務所に、チーズとコンソメの香りが立ち込める。
胃が、きゅっと縮む。
空腹のせいだけじゃない。
鼻歌が聞こえてきたのだ。小さく、機嫌のいい、聞いたこともない旋律。
『夜』ではない。久世が――あの久世が、歌っている。
「久世」
声が、少し掠れた。
「何でお前――そんなに楽しそうなんだよ」
「そう見えますか?」
鍋の中をかき混ぜながら、久世は穏やかに答える。
椅子に座り、身を強張らせる僕の前。傷だらけの机の上に、久世は、場違いなほど真っ白なランチョンマットを、華麗にさっと敷いた。
銀のティーカップに、透き通った琥珀色の紅茶を注ぐ。
カチリ、と硬質な音を立てて、磨き抜かれたスプーンが並べられた。
「さあ坊ちゃま。召し上がれ」
差し出されたリゾットからは、食欲をそそる香りが立っている。
久世は僕の隣に立ち、彫像のような佇まいで、僕が最初の一口を運ぶのをじっと待っていた。
まずは、紅茶で乾いた舌を潤そう。
ミルクが欲しいところだが、望むべくもない。
代わりに、たっぷり入れられた砂糖の甘さが、疲弊した脳に心地よく広がっていく。
銀の皿に盛られたリゾットに、スプーンを入れる。
一口。
ああ――懐かしい味だ。
それは、世界が壊れる前、御子柴の邸で僕が愛した、あの厨房の味そのものだった。
アルファ米とわずかな備蓄品で、なぜこれほどの再現ができるのか。
喉を通る熱が、僕の強張った心をゆっくりと、けれど確実に溶かしていく。
悔しい。憎いはずなのに、この男が与えてくれる「完璧な日常」に、僕の肉体は歓喜の声を上げていた。
口が、勝手にもう一口を求める。
咀嚼し、飲み込むたびに、僕の中の「人間としての誇り」が、静かに、音もなく折れていく気がした。
「そうだ――ゆいさんにも分けてあげよう」
瞬間、部屋の酸素がすべて張りついた。
久世が放った気配で……。
「坊ちゃま」
耳元。久世の声は、地を這うように低く、そして、どんよりとして聞こえた。
その唇が、僕の耳たぶをかすめるほどの間近で――熱い吐息が肌を叩く。
「これは……私が、坊ちゃまのためだけに作った――食事です。残りは私がいただきます。坊ちゃまにこれだけ尽くしている私に……坊ちゃまは、何を食べろと仰るのですか?」
僕は、スプーンを持ったまま、固まる。
背後から覆いかぶさるような久世の影が、僕という個を、飲み干そうとしている。
「……うん。ごめん」
僕は。
僕は今。
久世に――謝ったのか?
主は僕だ。
久世は執事だ。
なにが起きている――?
理解できないまま、僕は久世の望むままに、最後の一匙を口に運んだ。




