犬と女の子
いつまで歩けばいいのだろう。
街のスポーツ用品店で見つけた、真新しいトレッキングシューズ。機能性は完璧なはずなのに、足が重い。
ツクツクボウシの鳴き声が、四方から聞こえる。
進んでいるはずなのに、どこにも近づいていない気がした。
前を歩く僕の後ろに、歩調を合わせて、久世がついてきている。
背後から、僕を捌く機会でも、窺っているのだろうか。
ふと、視線の先を、何かが横切った。
――なんだ?
足を止める。
犬だ。ハスキーだ。
野良にしては、毛並みが良い。黒と白のもふもふで、目が青い。けれど、侵食の青さではない。生命力に満ちた、空の色をしていた。
それから――女の子!?
高校生くらいだろうか。バールを持っている。
使い古されたリュックを背負った彼女と目が合うと、彼女は弾かれたように肩を震わせた。
「あっ」
女の子の唇が小さく動く。
僕と同じ。怯え、迷い、明日を疑う「人間」の響きだ。胸の中に、熱い何かが込み上げてくる。同時に僕は、無意識のうちに、青く脈打つ自分の右腕を隠すように、左手で掴んだ。
「きみ」
僕が一歩踏み出そうとした、その時。
背後で、カチリ、と硬質な音が響いた。
久世が、ナイフの鞘を払った音だ。
振り返らなくても分かる。今、僕の背後に立っている男は、執事の顔などしていない。
自分のテリトリーに迷い込んだ「不純物」を排除しようとする、冷酷な狩人の顔をしているはずだ。
彼女が後ずさる。犬が、唸り声を上げて僕たちを威嚇する。
「待てよ、久世! 人だろ、彼女は……!」
「いいえ。不確定要素です」
久世の声は、火傷しそうなほど冷たかった。
僕の命を守るための忠誠が、ここではただの、鋭利な殺意へと姿を変えている。
「感染してない――!」
それは、彼女の声だった。
「感染してない!! 助けて!!」
彼女はもう一度叫んだ。喉を振り絞るような声で。
その言葉に僕は、細い光を見た気がした。
護らなくてはと、思った。
僕は振り返り、両手を広げた。久世に立ちはだかるように。
「久世!! 僕は、人でいたい!!」
久世が、首を傾げる。
額に深い皺を寄せ、ひどく不快そうに。あるいは、傷ついたように視線を落とした。
やがて久世は、翳していたナイフをゆっくりと降ろし、背後の鞘へ戻すと、顎を上げて冷ややかに、僕の背後を一瞥した。
「――坊ちゃまが、そう仰るのなら」
カランッ――と、金属が落ちる音がした。きっと彼女が、手にしていたバールを落としたんだ。僕は頷いて振り向くと、彼女はへなへなと座り込んだ。
「はっはっ」と息を吐くハスキーの鼻先に、僕は手の甲を差し出した。ハスキーは匂いを嗅ぐと、僕の膝に前脚を掛ける。踵を返したその先導で、僕は彼女の元に歩み寄った。
片膝を折り、目線を合わせる。
握手のつもりで、右手を出した。
久世に調律され、人ならざる熱を帯びた、その右手を。
「僕は、怜央だ。御子柴怜央。よろしく」
突然。
彼女は僕に抱きついてきた。
その体温は、久世のように焼けるような熱さではなく、微かで、頼りなくて、けれど確かな『命』のぬくもりだった。
直ぐに、見た目より幼い泣き声が聞こえてくる。
――怖かったんだ。
そう思うと、僕は安堵した。
そっと抱き締める。その髪を撫でた。
彼女の体から伝わる、か弱い鼓動。
それは、久世に鼓動とは違う、歪で美しいリズムを刻んでいた。
それが今の僕には、何よりも眩しかった。




