三時間の待合室
# 第九話 三時間の待合室
夜明け直後だった。
王宮東翼の部屋は、まだ暗い。窓の外が薄い灰色に変わり始めるだけで、石造りの壁が冷気を帯びている。白樺の天井の下で、遠く——かなり遠くに見えるが——塔のてっぺんに青白い光が脈動している。規則正しく。心拍のように。
ミサは机に座っていた。羊皮紙が三枚、並んでいる。筆は止まったまま。インク壺の蓋が開いた状態で、乾きかけている。目の前の一番上の羊皮紙には、昨夜書き留めた三行がある。
『治す=傷が消える』
『加護=推薦と寄付』
『魔法=コスト以上の何か』
三行目の「何か」が、まだ埋まっていない。筆先で凹みをつけた痕跡だけが、羊皮紙の表面に残っている。
ミサは第三行の空白に指を当てた。ざらついた羊皮紙の繊維が、親指の腹に食い込む。
(……今日)
昨日バルトが言った言葉が、まだ耳に残っていた。「ポーションは補助的なものです」。事務的だった。感情の色がほとんどなかった。けれどその一言が、羊皮紙の上で重く沈んだことを、ミサは忘れない。異世界小説では、ポーション一本で即回復する。血飛沫が飛び散った直後、赤い瓶を飲むと「ぷしゅん」と音がして傷が消える。そういう演出だった。ここでは、三日。二週間。感染すれば別の薬草。
つまり、待たされる。
(……治す)
ミサは指先から空白の羊皮紙を離し、筆を置いた。今日調査する対象を決めた。馬車ではない。足で向かう。
扉を開けると、廊下の石畳が冷たい。白樺の天井が遠ざかる。階段を降りる。二階。一階。玄関。
外に出た瞬間、空が薄い橙色に変わっていた。王都セレスティアの朝が始まる。石畳の道に、人の気配が増え始める。馬車の輪音が遠くで響く。煙突から黒い煙。誰かが神殿の方へ歩いていく。誰も「魔法で」とは言わない。
塔の青白い光が、遠くで脈動している。
一拍。二拍。三拍。四拍——遅れ。五拍。六拍。七拍——遅れ。
ミサは足を止めた。
昨日もそう思った。気のせいかもしれない。けれど今日は、羊皮紙に書けば消えない、と自分に言わせた。書き残さなければ、感覚だけが残る。感覚だけでは、明日の自分には伝わらない。
一拍。二拍。三拍——四拍が、半拍遅い。五拍。六拍——七拍が、また半拍遅い。
二回。昨日は一回だった気がした。あるいは、気のせいだった。けれど今日は、二回。確かに。
ミサは歩き出した。王宮の門をくぐる。護衛が二人、門の外に立っていた。一人は昨日と同じ顔だった。もう一人は初めて見る。二十代後半くらい。顔に傷跡がある。剣の柄を両手で握っている。
「殿下のお名前を」
「ミサ・カーターです」
「……異国の、か」
うなずいた。それ以上は聞かれなかった。
門の外は、もう朝だった。石畳が朝日で白く光る。道端で野菜を並べた女が、声を張っている。馬車が一台、並んで走っている。煙突の黒い煙が、オレンジ色の空に溶けていく。
ミサは南東へ向かった。バルトから住所を教えてもらった公共診療所。王都の中心からは少し外れた場所だが、商業区の端と貧民街アッシュレーンの間に挟まれている。道中、三つの交差点を曲がり、一つの下り坂を下った。
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診療所は、三階建ての木造と石造りの混合建築だった。一階が石造りで、二階・三階が木造。壁の漆喰が剥げている箇所がある。窓ガラス——いや、ガラスではなく薄い石の板——が、朝日を反射して白く光っている。入口の上には木札が掛かっていた。「公共診療所・南東区」。文字は大きく、墨が少し滲んでいる。
ミサは扉を開けた。
待合室は狭かった。椅子が八脚。七人が座っている。空いている椅子が一つだけ——最前列の隣だった。ミサはその椅子に腰を下ろした。
空気は湿っていた。薬草と、それから別の何か——鉄のような、あるいは血のような——匂いが混ざっている。窓から差し込む朝日が、床の木目を斜めに照らしている。七人の呼吸が、静かに重なり合っている。誰も話していない。誰かが咳をした。もう一人が肩をすくめた。それだけだった。
最前列に座っていた女性を見た。三十代くらい。布の上衣が擦れていて、襟元が薄くなっている。左手首に布を巻いている。布の端から、淡い赤色が滲んでいる。血の跡だ。あるいは、まだ少しだけ出血しているのか。
女性は壁の時計——いや、時計ではない。塔の光の明滅を基準にした振り子時計——を見ている。振り子が規則正しく揺れている。青白い光が、窓の外で脈動するたびに、振り子の先端が小さく光る。三時間。女性がここに座っている時間は、おそらく三時間だ。
ミサは声をかけた。
「……三時間ですか」
女性が顔を上げた。目元に影がある。眠っていないのか、あるいは寝ていても起きていたのか、区別がつかない。
「次の順が来るまで、待たされます」
声は低かった。怒りではない。諦めでもない。ただ、事実を伝えているだけだ。バルトの「それが世の常です」と同じ構造をしている。
「……左手首は?」
女性が布の端を指先で弄った。一回。二回。三回。
「擦り傷です」
「三日で治りますか」
一拍。
「……医師がそう言います。ただし、感染が起これば別の薬草が必要です」
ミサはうなずいた。バルトの言葉と一致している。「ポーションは補助的なものです」「擦り傷なら三日」「感染が起これば、別の薬草が必要になります」。同じことを、三つの場所で聞いている。宮廷書記官の口から。そして今、患者の口から。
(……つまり)
ミサは羊皮紙を取り出した。筆先でなぞる。「治す=傷が消える」。その下に、小さく書き足した。「……でも、ここでは待たされる」
診察室の扉が開いた。
出てきたのは女性だった。四十代後半くらい。痩せていて、頬骨が張っている。髪は後ろで束ねてあり、数本の白い毛が混ざっている。白衣——いや、この世界では無地の薄い麻の上衣——に、胸元で小さな紋章を縫い付けている。手には羊皮紙と筆。表情はない。怒っていない。けれど、疲れている。目の下に影がある。
ミサを見た。白衣の胸元——王宮の紋章——を一瞬だけ見た。
「……王宮のか」
声は事務的だった。感情の色が薄い。バルトの顔が、一瞬だけ頭をよぎった。けれど、バルトとは違う。この女性の手には、インクの染みがある。指先が乾いていない。何かを書いていたばかりだ。あるいは、何かを診たばかりだ。
「……はい」ミサは答えた。「公共診療所について、調べています」
女性はうなずいた。それから、待合室の七人を見た。視線が、最前列の女性の手首に一秒だけ留まった。何も言わなかった。
「三時間ですか」女性が尋ねた。最前列の女性に向かってではない。ミサに向かって。確認しているのだ。記録と現場が一致するかどうか。
「……はい」
女性は筆を置いた。「順番です」とだけ言って、診察室に戻ろうとした。
「待ってください」
ミサの声が、少し高くなった。自分でも気づいて、声を下げた。
「三日で治る傷と、三時間待たされる傷は、同じですか」
女性が足を止めた。背中を向けたまま、一拍。二拍。それから、肩だけを回した。
「……同じです」
声は低かった。事務的だが、その一言に、何かが混ざっていた。諦めか、あるいは——責任。この世界を知っていて、それでも「順番です」と言わざるを得ない重さ。エレノアの声にも、バルトの声にもあったものと同じ。
「順番です」女性が繰り返した。「それが、ここでのやり方です」
診察室の扉が閉まった。
ミサは息を吐いた。待合室の空気が、少しだけ変わったように感じた。最前列の女性が、布の端を弄むのを止めている。ミサを見ていない。けれど、聞いていた。
(……順番)
異世界小説では、傷を負った主人公が「ぷしゅん」と音を立てて回復する。順番はない。待ち時間はない。ポーションがあるなら飲む。ないなら魔法で治す。それだけだった。
けれどここでは、三時間。順番。布の端を弄る指先。壁の時計——いや、振り子時計——を見つめる目。
ミサは羊皮紙に書き始めた。「治す=傷が消える。ただし、三時間待たされる。順番がある」。筆先が止まった。その下に、小さく。「……誰が、治すのか」
記録棚を見た。診察室の横に、腰の高さほどの木製の棚がある。羊皮紙の束が、紐でまとめられて並んでいる。古いものほど、端が茶色くなっている。インクの匂いが、湿った空気に混ざっている。
ミサは立ち上がった。
最前列の女性が、視線を上げた。「……」何も言わなかった。けれど、指先が布の端から離れた。
記録棚の前で、ミサは紐で結ばれた束を解いた。ローラ——この女性の名前は、まだ知らない。けれど、白衣の胸元の紋章と、筆の握り方から、ここでの「医師」だと分かる——が制止する前に、最上段の羊皮紙に目を落とした。
古い。端が茶色く変色している。インクの字が、少し滲んでいる。欄がある。上から順に。
『対象:擦り傷(左手首)』
『処置:ポーション塗布(補助)』
『経過:三日』
『治癒:補助完了』
ミサの指先が、「補助完了」の四字をなぞった。ざらついた羊皮紙の上で、インクの窪みが指先に触れる。「補助」。完了。
「……治癒が、補助完了です?」
声は小さかった。けれど、待合室に響いた。最前列の女性が、布の端を弄うのを再開した。一回。二回。三回。
診察室から、ローラが出てきた。筆を置いた。音を立てて。
「はい」
一拍。「治すのは、本来、治すものごとが治すことです」。声は事務的だが、その中に、初めて聞いた言葉があった。「本来」。バルトが言わなかった。エレノアも言わなかった。この女性——ローラ——が、初めて「本来」と言った。
「我々ができるのは、補助するだけです」
一拍。二拍。三拍。沈黙の三秒。
ミサは羊皮紙を指さしたまま、尋ねた。
「……つまり、治すのは、別の誰かですか? もしくは、別の何か?」
ローラは答えなかった。
沈黙が、四秒続いた。五秒。六秒。待合室の七人の呼吸だけが聞こえる。振り子時計の揺れ。窓の外で、塔の青白い光が脈動する。一拍。二拍。三拍——四拍が遅い。五拍。六拍——七拍が遅い。
ローラは筆を拾い直した。インクが少し固まっている。指先でなぞって溶かす。ミサの羊皮紙——いや、記録棚の羊皮紙——から目を離さなかった。
「……次の順です」ローラが言った。「最前列の方、診察室へ」
最前列の女性が立ち上がった。布の端をもう一度弄い。左手首を、少しだけ持ち上げた。淡い赤色が、朝日に透けて見える。
診察室の扉が開いた。閉まった。
ミサは記録棚の前に立ったまま、羊皮紙を見つめていた。「治癒:補助完了」。四字。インクの窪み。指先の感触がまだ残っている。
(……別の何か)
ローラは答えなかった。けれど、「本来」と言った。その二文字が、羊皮紙の上で重く沈んでいる。
廊下から声がした。二人の足音。一定の間隔で。それから、三回ノック。
「王女殿下、お越しになりました」
声は、待合室の向こう——入口の方——から聞こえた。ローラの声ではない。別の声だ。若い。女性。
扉が開いた。
エレノア・アルヴェインが入ってきた。金髪の髪が、朝日に淡く光っている。表情は変わらない。けれど、肩が少しだけ落ちている。昨日の夜——「だが……」の先にあったもの——を、まだ言葉にできていないことの重さが、肩の線に乗っている。
ローラが頭を下げた。「殿下」
待合室の空気が変わった。七人の患者が、それぞれに椅子に背を預け、壁を見る。あるいは、窓の外を見る。最前列の女性は——診察室から出てきた女性だ——左手首の布を指先で弄いながら、王女を見ていた。三時間の待ちが、「順番」から「許諾」に意味を変える瞬間を、彼女の目の中に一瞬だけ見た気がした。
エレノアはミサを見た。羊皮紙を差し出した。「見せて」
ミサは記録棚の羊皮紙——「治癒:補助完了」——を指さした。エレノアが近づき、四字を指でなぞった。ざらついた感触。インクの窪み。何も言わない。一拍。二拍。三拍。
それから、自分の羊皮紙——ミサの三行——を取り出した。最前列の「治す=傷が消える」。第二行の「加護=推薦と寄付」。第三行。「魔法=コスト以上の何か」。空白が、まだそこにある。
エレノアは羊皮紙を閉じた。ミサを見た。
「今日、三番目の質問は済んだか」
声は低かった。普段の柔らかさがない。けれど、怒りではない。確認だ。探しているのだ。答えを、まだ探している。昨日の「だが」の続きを、今日は別の形で出してきた。
ミサはうなずいた。
二人とも知っている。第三行の空白——「魔法=コスト以上の何か」——が、まだ埋まっていないことを。今日も、埋まらない。明日も、たぶん埋まらない。けれど、「治す」が「補助完了」であるという事実は、羊皮紙の上で消えない。
窓の外では、塔の青白い光が脈動している。
一拍。二拍。三拍——四拍が遅い。五拍。六拍——七拍が遅い。
二回。昨日は一回だった気がした。あるいは、気のせいだった。けれど今日は、二回。確かに。規則正しく。心拍のように。止まる気配はない。
エレノアは羊皮紙を鞄——この世界では布の袋——にしまった。最前列の女性——診察を終えたらしい——を見た。「……左手首は」
「三日で治ります。ただし、感染が起これば別の薬草が必要です」ローラが答えた。
エレノアは何も言わなかった。うなずいただけだった。
ミサは窓の外を見ていた。塔の青白い光。一拍。二拍。三拍——四拍が遅い。五拍。六拍——七拍が遅い。
(……まだ、違う)
その言葉が、胸の奥から浮かび上がった。自分の記憶のものなのか、この世界のものなのか、区別がつかない。「補助完了」。四字。インクの窪み。指先の感触が、まだ残っている。
第三行の空白は、まだそこにある。




