届かない加護
# 第十話 届かない加護
朝。
ミサは羊皮紙の三行を、もう一度読み直した。
『治す=傷が消える(本来)→ 傷が消えるまで待つ(現在)』
『加護=守られる(本来)→ 順番が来るまで待つ(現在)』
『魔法=コスト以上の何か(?)』
筆先で凹みをつけた「何か」の痕が、昨日から増えている。指先で触れると、羊皮紙の繊維がわずかに削れている。三回目は今日だ。同じ三行を、同じ順番で、同じ声の調子で読んでいる。けれど、三行目の空白は埋まっていない。
窓の外。塔の青白い光が規則正しく明滅する。
一拍。二拍。三拍。四拍。
今日は遅れがない。
ミサは「ない」こと自体を、昨日の「あった」の記憶で照らした。半拍だけ遅かったという感覚——気のせいかもしれない、と自分に言い聞かせた感覚——が、今日は何も示さない沈黙の中で、かえって鈍く浮かび上がる。
玄関先で、護衛の剣の柄が朝日に光る。白樺の天井から遠ざかる廊下の向こうで、エレノアの声が聞こえた。
「セーラという女、神殿の待合で八日目か」
ミサは筆を置いた。
「……八日間、待ってるの?」
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王都南東。初光神殿の外周。
朝の光が石畳に斜めに落ちている。神殿の正面門は閉まっている。開いているのは、東側の小さな扉——信徒用の入口だ。扉の横には木製の札が掛かっており、「加護祈願・受付順」の文字が墨で書かれている。
ミサとエレノアは裏口から待合室に入った。
長椅子が五列、並んでいる。石造りの壁。天井が高い。窓が一つ、東側にあり、朝日が差し込んでいる。二十余人が座っている。大半は布衣。革の鎧を着た者が一人。貴族の紋章付きの上着は——二人だけだ。
三列目の端に、セーラが座っている。
膝の上に小さな男の子。五歳前後。顔色が悪い。唇が乾いている。目は開いているけれど、焦点が定まっていない。布の上衣が、薄すぎる。指先が震えている。
ミサは足を止めた。
「……あの」
声をかけた。セーラが顔を上げる。目が少しだけ潤んでいる。泣いたのか、泣こうとしたのか、区別がつかない。
「今日、順番が来ます」
そう言った。声は平らだ。けれど、「今日」という言葉の重さが、昨日も今日も来なかったことを含んでいる。
ミサは羊皮紙を鞄から取り出した。筆先を握る。指先が少しだけ震えている——セーラの膝の上で、レオの指先が、もう一度、動いたのを確認したからだ。
「……何の順番ですか」
窓口の方に目を向けた。神官がいる。三十代くらい。灰色の長衣。胸元に神殿の紋章。表情がない。ない、というより、感情の色を排している。事務的。バルトの顔が、一瞬だけ頭をよぎった。あの「それが世の常です」の声と、同じ構造をしている。
神官は列を見渡し、答えた。
「加護の順序は、推薦日付と、寄付の確認順です」
声に温度がない。事実を伝えているだけだ。
ミサは羊皮紙に書き始めた。筆が震える。
『加護=推薦日付+寄付確認+順番』
「レオの病名は」セーラに聞いた。「熱、ですか?」
セーラがうなずいた。
「三日になります」
「三日、熱が」とミサは繰り返した。声の調子を変えなかった。けれど、羊皮紙の上で指先が止まった。
神官が口を開いた。
「ポーションは補助的です。加護が降りていれば、治ります」
「……加護が降りるまで、待つんですか」
神官は答えない。
セーラが答える。声は小さい。けれど、はっきりしている。
「はい。待つしかない。推薦状がないと、三列より後ろに並ぶんです」
ミサの指先が羊皮紙の縁を抓る。繊維が擦れる音がした。小さく。けれど、待合室の静けさの中で、確かに響いた。
筆が震える。書き始める。
『加護=推薦日付+寄付確認+順番。届く前に、待つ者が失う』
窓の外を見る。塔の方向。青白い光が規則正しく明滅している。
一拍。二拍。三拍——
四拍目が、半拍だけ遅い。
セーラの膝の上で、レオの体温が、もう一度上がる。唇の色が、一瞬だけ薄くなった。
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午後。
神殿の裏口。石段の下に、狭い路地がある。壁に苔が生えている。日陰だ。
セーラが座っている。膝を抱えて。泣いている。けれど、叫んでいない。肩が震えるだけで、声がほとんど出ていない。レオが横たわっており、布の上衣から腕を出している。指先が白く、細い。
「おかあさん」
小さな声。
「痛い」
セーラの肩が、もう一度、震えた。
ミサは自分の鞄——異世界では意味のない鞄——を膝の前に置き、底のポケットから水筒を取り出した。革張りの筒。栓を開ける。冷たい水が、内側の金属に当たる音がした。
セーラの口に、水をやる。口元を指先で支えながら、少しずつ。セーラは目を閉じて、喉を鳴らして飲んだ。
レオの額に、布を当てる。水筒から少しだけ水を絞り、布に含ませる。冷たい感触が、乾いた皮膚に触れる。
それだけのことだ。
けれど、レオの唇が、少しだけ色を戻す。薄かった赤が、わずかに戻る。目元が、少しだけ緩む。
セーラが目を閉じたまま、言った。
「……ありがとう」
一拍。
「でも、明日も、あさっても、同じことをするしかない」
声は平らだ。怒りがない。叫びもない。「順番」を待っているだけだ。制度への怒りではなく、制度の外での待ちを、すでに受容している。その受容の重さが、ミサの胸を圧した。
「同じことをするだけ」の重さを、異世界に来てから最も強く感じた。
塔が、遠くで、一拍だけ止まる。
一拍だけ。けれど、確かに。青白い光が消え、消えたままの一秒——あるいはそれ以上の時間——が、路地の静寂の中に落ちた。
ミサは塔の方を指さした。エレノアを見る。
エレノアも、同じ一拍を見ていた。
二人の間に、言葉がない。
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石段の上で、エレノアが言った。声は低い。普段の柔らかさが少しだけ削れている。
「宮廷から、伝言があった」
ミサは筆を止めた。
「異国客の滞在を縮めるよう、と。陛下のお命ではない。評議会の意向だ」
一拍。
「残り二日です」
ミサは羊皮紙の三行目を指さした。「何か」の空白の上で、指が止まっている。
「殿下。残り二日で、この世界の人々に『何が変わったか』を説明できる根拠を、出さなきゃいけない」
エレノアが答える。声は穏やかだ。けれど、その穏やかさが、かえって重かった。
「根拠を、どこから持ってくる」
ミサは羊皮紙の三行目を指先でなぞった。凹みの痕。三回読み直した跡。
「まだ、埋まってない」
一拍。
「でも、埋め方、分かってきた気がする」
エレノアは何も言わなかった。塔の方を見た。青白い光が、もう一度、明滅を始めている。規則正しく。心拍のように。けれど、先ほどの一秒の沈黙が、まだ空気に残っている。
「……まだ、違う」ミサは続けた。「でも、埋め方、分かってきた気がする」
同じ言葉を繰り返したわけではない。一回目の「まだ、違う」は、王宮の部屋で呟いたものだ。二回目の「まだ、違う」は、塔の前で、二人の沈黙の中で生まれたものだ。意味が、少しだけずれている。
エレノアはうなずいた。「行こう」とだけ言って、石段を降りた。ミサが後を追う。セーラとレオは、路地の壁に背中を預けて、目を閉じている。動かない。待っている。順番が来るまで。
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夜。
王宮東翼の部屋。白樺の天井。石造りの壁が冷気を帯びている。窓の外で、塔の青白い光が規則正しく明滅している。
ミサは机に座り、羊皮紙を前にした。筆先で三行目を消す。インクが滲む。擦る。繊維が削れる。三回読み直した凹みが、もう読めないほど浅い。
新しい三行を書く。大きく、はっきりと。
『治す=傷が消える(本来)→ 傷が消えるまで待つ(現在)』
『加護=守られる(本来)→ 順番が来るまで待つ(現在)』
『魔法=コスト以上の何か(?)→ 魔法=届く前に失われる何か(?)』
三行目の「?」が、まだ残っている。
枕元のスマートフォンを握る。冷たい。電源ボタンを押す。反応しない。もう一度。しない。
けれど——
画面の左下。フレームとガラスの境目。あの小さな黒い点。昨日からあるものだ。昨日はただの黒い点だった。影かもしれない、と思った。指先で触れようとすると、またただの黒い点に戻っていた。
今日は、違う。
その点が、確かに、青白く光っている。
塔の光と同じ色だ。
ミサは息を止めた。指先が動かない。黒い点を凝視する。三秒。五秒。七秒。消えない。青白い光が、フレームとガラスの境目をわずかに染めている。
窓の外で、塔が明滅する。
一拍。二拍。三拍。四拍。
今日は、遅れがない。
ミサは「ない」ことを、昨日より、怖く感じる。半拍の遅れがあった日は、「何かがおかしい」と思えた。けれど、今日は何も示さない。塔は規則正しく明滅し、スマートフォンは青白く光り、セーラはまだ待っている。レオはまだ痛い。順番はまだ来ない。
「ない」ことが、最も恐ろしい。
ミサは筆を置き、羊皮紙の三行目をもう一度読んだ。声に出さずに。唇だけで。
『魔法=届く前に失われる何か(?)』
「?」が、まだ残っている。
けれど、昨日の「コスト以上の何か」とは、違う。今日のは、セーラの膝の上で震えた指先の温度を含んでいる。レオの乾いた唇の色を、含んでいる。神官の声に温度がないことを、含んでいる。「順番」が来るまで、待つしかないと言った声の重さを、含んでいる。
スマートフォンを、掌に載せたまま、暗い画面を見つめた。青白い点が、まだ光っている。消えない。
(……気の、せい)
呟いた。けれど、昨日ほど、その言葉が軽くはない。
窓の外で、塔の青白い光が明滅する。規則正しく。心拍のように。止まる気配はない。
一拍。二拍。三拍。四拍。
今日は、遅れがない。
ミサは羊皮紙を折りたたみ、鞄に入れた。筆を置く。インク壺の蓋をする。
暗い部屋の中で、スマートフォンの青白い光だけが、消えない。




