窓口の向こう側
# 第七話 窓口の向こう側
夜明け前。
王宮東翼の部屋は、まだ暗い。窓の外が薄い灰色に変わり始めるだけだ。石造りの壁から冷気が滲み、ミサの肩の上を這うような寒さがある。白樺の天井の隙間から、遠くで塔の光が脈動している。青白く。規則正しく。心拍のように。
ミサは机に座っている。羊皮紙が一枚、広げられている。筆は止まったまま。インク壺の蓋が開いた状態で、乾きかけている。目の前の羊皮紙には、昨日書き留めた三行がある。
『治す=傷が消える』
『加護=推薦と寄付』
『魔法=コスト以上の何か』
三行目の「何か」が、まだ埋まっていない。筆先で凹みをつけた痕跡だけが、羊皮紙の表面に残っている。昨日、バルト——宮廷書記官——が言った言葉が、耳の奥に貼りついている。「それが世の常です」。感情のない声。事実を伝えているだけ。けれどその一言が、羊皮紙の上で重く沈んだ感触を、まだ指先が覚えている。
眠れなかった。正確に言えば、寝たふりをしていた。目を閉じても、塔の明滅が瞼の裏側で続いていた。一拍。二拍。三拍——四拍。規則正しい。けれど、昨日の夜、四拍目が少し遅かった気がするという感覚が、消えていない。
気のせいかもしれない。昨日もそう思った。今日もそう思う。
けれど、羊皮紙に書けば、消えない。
ミサは筆を拾い直した。インクが少し固まっている。指先でなぞって溶かす。三行の下部に、新しい一行を書き始めた。
『制度=本来の意味の翻訳』
まだ言葉が足りない。「翻訳」の向こう側に何があるのか、分かっていない。けれど、書けば、形になる。形になれば、明日の問いが生まれる。
「ノック」
三回。一定の間隔で。ミサは筆を置いた。
「どうぞ」
ドアが開く。一人だった。護衛がいない。
エレノア・アルヴェイン。金髪の髪が、まだ暗い部屋の光の中で淡く浮かんでいる。表情は変わらない。けれど、肩が少しだけ落ちている。昨日の午後——羊皮紙の上で指先をなぞっていたあの三回——とは違う。今日は、指先が動いていない。
「ミサ」
王女は机の向かいに座った。椅子を引きずる音が、石畳の部屋に小さく響く。
「殿下、今日、外へ出ます」
声は落ち着いている。昨日までの震えがない。エレノアは一瞬だけ黙り、窓の外を向いた。灰色の空。塔の青白い光が、規則正しく明滅している。心拍のように。
「護衛を三人」
「二人でいい」
「一人では?」
一拍。沈黙。エレノアはミサを見た。金髪の瞳が、暗い部屋の中で少しだけ光っている。
「……わかった」
それだけ言って、立ち上がった。廊下へ向かいながら、声を返した。
「一時間は戻ってこい」
扉が閉まった。ミサは羊皮紙を折りたたみ、胸ポケット——この世界では胸の布に縫い付けられた小さな袋——に入れた。筆とインク壺を鞄に入れる。手際がいい。昨日までのためらいがない。
廊下に出ると、護衛が二人立っていた。一人は昨日と同じ顔だった。もう一人は初めて見る。二十代後半くらい。顔に傷跡がある。剣の柄を両手で握っている。
「殿下のお名前を」
「ミサ・カーターです」
「……異国の、か」
うなずいた。それ以上は聞かれなかった。
門をくぐる瞬間、空が薄い橙色に変わった。王都セレスティアの朝が始まる。石畳の道に、人の気配が増え始める。馬車の輪音が遠くで響く。煙突から黒い煙。誰かが神殿の方へ歩いていく。誰も「魔法で」とは言わない。
塔の青白い光が、遠くで脈動している。
一拍。二拍。三拍。四拍。
今日は、遅れはない。
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ギルド本棟は、王都商業区の北端に立っていた。
二階建ての石造り。正面には、大きな木札が掛かっている。「冒険者ギルド・エルディア支部」。文字は大きく、墨が少し滲んでいる。風雨で角が丸くなっている。この看板が何年何十年と掛かっているのか、ミサは考えた。
列が、入口まで曲がっている。
三十人ほど。あるいは四十人。男女老若。着ている服の質が異なる。革の鎧を着た者もいれば、布の上衣に腰袋を下げた者もいる。誰も早くはない。順番だ。順番がある。
ミサは護衛の一人を残し——門番として——、列の最後尾に並んだ。
窓口の向こう側が、ガラス越しに見える。作業場だ。男が羊皮紙にスタンプを押し、別の男がインクで番号を書いている。手際がいい。表情はない。感情の色が薄い。事務的。バルトの顔が、一瞬だけ頭をよぎった。あの「それが世の常です」の声と、このガラス向こうの動きは、同じ構造をしている。
列が前に進み、ミサは窓口のカウンターに立った。
向かいの男は三十代。薄毛。眼鏡をかけていない——この世界では稀有だろう。顔にはインクの染みが一つ。指先が乾いていない。
「申請」
「……はい」
「申請書です」
羊皮紙が、一枚、滑らせて渡された。欄がある。上から順に。
『任務分類』
『魔力格』
『加護等級』
『手数料(銀貨○枚)』
ミサは指先で欄をなぞった。「任務分類」。何の分類? 冒険の種類か、魔物の種類か、それとも——「順番」なのか。この世界では、魔法を使うことにも、何かの「格」が必要になる。
「魔力格って、どう決まるの?」
窓口の男は筆を置いた。顔は上げていない。羊皮紙の向こう側を見ている。
「試験で。毎年一回、支部で」
「誰でも受けられる?」
男が顔を上げた。薄い目でミサを見た。白い上衣——胸元に王宮の紋章——を一瞬だけ見た。けれど、質問には答えた。
「身分証と、紹介状、それから受験料」
三つの鍵。試験。紹介。金。ミサは羊皮紙を取り出し、筆先で書き始めた。列の後ろで他の人々が息を吐いている音がする。
『魔法を使う権利=試験+紹介+金。三つの鍵が必要』
「紹介状……誰の?」
男が答える前に、列の前の男——革の鎧を着た者——が割り込んだ。「次の番は」と言いながら、窓口の男に手を伸ばした。ミサは筆を止めた。
「ギルド長か、上位の冒険者か」窓口の男が、革の鎧の男をやり過ごしながら言った。「あるいは、貴族の書簡」
貴族の書簡。エレノアの名前があれば通るのだろう。けれど、この街で生きている人々には、貴族の書簡がない。紹介状がなければ試験を受けられない。試験がなければ魔力格がつかない。魔力格がなければ——窓口の向こう側で処理される「任務」に、自分の名前が入らない。
ミサは羊皮紙を折りたたみ、胸ポケットに戻した。列から離れ、ガラス越しに作業場を最後に見た。スタンプを押す手。番号を書く指。表情のない顔。
順番がある。分類がある。格がある。
魔法が、魔法として「便利」であるために、三つの鍵が必要になる。
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市場地区へ向かう道は、十五分ほどだった。
ギルド本棟を出ると、人混みが増える。露天の並ぶ路地。野菜を積んだ荷車。魚を売る男の声。子どもが走っていく。ミサは護衛と少し距離をとりながら——一人では不自然だから——、歩いていた。
薬草屋の軒先で、足を止めた。
二つの籠が、店先に置かれている。同じ草だ。カランデュラ。鎮痛草。昨日、バルトが「感染が起これば別の薬草が必要になります」と言ったとき、頭の中に浮かんだ名前の一つだった。
片方の籠には、羊皮紙の札が刺さっている。「加護等級C・神殿登録済」。もう片方には、札がない。ただの草の束。同じ色。同じ形。同じ匂い——ミサは鼻を近づけなかったけれど、風で微かに薬草の香りが届いてくる。
価格札を見比べた。
三対一。
「加護って、薬草にもつくの?」
店主が顔を上げた。中年女性。指先に土がついている。顔に汗。
「神殿で登録すれば、効果が高いとされている」
「……高いと、される」
ミサは言葉を繰り返した。「する」という受身。自分で効くのではなく、「高いとされている」。誰かがそう決めれば、そうなる。
「ただし登録料がかかる」店主が続けた。「一冊の札に、銀貨五枚です」
五枚。ギルドの手数料の欄——「手数料(銀貨○枚)」——と、同じ通貨。同じ単位。この世界では、魔法も加護も薬草も、すべて銀貨で測られている。
ミサは店先にしゃがみ、札の裏側を見た。羊皮紙に神殿の紋章と、小さな文字。「カランデュラ・鎮痛効能・成分比率三対七」。本来なら、「この薬草はこの成分を含み、この効能を持つ」と書く欄だ。代わりに「加護等級C」が書かれている。草の説明の代わりに、格の記号がある。
隣にいた少年が、見下ろしていた。十代前半。顔に泥。布の上衣。指先が荒れている。
「お姉ちゃん、薬草屋に詳しい?」
ミサは少し笑った。
「この世界の『当たり前』を、まだ学んでいるところ」
少年は何も言わなかった。目を伏せ、自分の靴の先を見た。それから、路地の奥へ走っていった。
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市場の角で、衛兵が一人の老婆を突き返していた。
短く。鋭く。老婆は荷物を落とした。カランデュラの束が、石畳の上に散らばる。緑色の葉が、風で揺れている。
「お前は身分証もないのに、市場で薬を売っている。罰金を払え」
老婆は小袋を差し出した。銀貨が二枚。衛兵は数えた。「足りない」。
ミサが立った。
「何の罰則ですか」
衛兵が顔を上げた。二十代。顔に汗。声は高い。条例を盾にしている。けれど、その盾の裏側——なぜこの条例が存在するのか——を、彼自身は知らないのだろう。
「無登録品売買の条例、第三項」
「『無登録』って、何の登録?」
一拍。衛兵の声が、少しだけ低くなった。
「神殿の。加護の登録」
ミサは衛兵の背後に目をやった。老婆が売る薬草の束。カランデュラ。市場の三倍安い店にも置かれていたもの。同じ草。同じ成分。ただ「登録」されていない。
草は草だ。草が、制度によって「薬」か「雑草」かを決められている。
衛兵がミサを見た。白い上衣——王宮の紋章——を見る。声を詰まらせる。「……異国の、か」。それ以上は言わなかった。肩をすくめ、老婆から目を逸らした。銀貨二枚を小袋に戻し、自分の腰に下げた。
老婆は散らばったカランデュラを拾い始めた。指先が震えている。けれど、拾っている。一粒も落としたくない、という顔で。
ミサは胸ポケットから羊皮紙を取り出し、筆を走らせた。石畳の上に膝をつきながら。インクが少し垂れた。気にしない。
『物本来の性質 ≠ 物として認められた性質。この世界では、後者が前者を覆す』
老婆はまだ拾っている。ミサは立ち上がり、衛兵を見た。衛兵はもう見ていなかった。次の客——別の露店の男——に声をかけていた。条例第四項だ。あるいは第五項だ。第三項ではない。
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王宮へ戻る道で、護衛の一人が尋ねた。
「殿、その老婆は?」
ミサは正直に答えた。
「……まだ、分かっていない」
声は小さかった。けれど、昨日までの「多分」「気がする」がない。「分かっていない」と言える。それは、まだ始まったばかりだということの証拠でもある。
部屋に戻り、エレノアの前で羊皮紙を置いた。
六行になっている。三行の下部に、三行が追加されている。
『治す=傷が消える』
『加護=推薦と寄付』
『魔法=コスト以上の何か』
『制度=本来の意味の翻訳』
『魔法を使う権利=試験+紹介+金。三つの鍵が必要』
『物本来の性質 ≠ 物として認められた性質。この世界では、後者が前者を覆す』
エレノアは読んだ。時間は短い。一呼吸。二呼吸。三呼吸。それから、窓の外を指した。
塔の光。青白く。規則正しく。心拍のように。
一拍。二拍。三拍。四拍。
「今日は、なかった?」
ミサが問うた。声は平坦だ。感情の色がない。確認しているだけだ。
エレノアはうなずいた。「なかった」
一拍。沈黙。
「……それは、いいことですか?」
エレノアは答えない。代わりに、羊皮紙の六行目の横に——『制度=本来の意味の翻訳』の隣に——筆を持ち、小さく一言足した。インクがまだ乾いていない。濡れた線が、羊皮紙の表面を滑っている。
ミサはその一行を読んだ。
『あるいは、翻訳が制度を作った』
ミサは指先でその文字をなぞった。インクがまだ乾いていない。濡れた指先が、羊皮紙の表面を滑る。少しだけ染みができた。気にしない。
「殿下」
「ん」
「どちらだと思いますか。制度が言葉を翻訳するのか。言葉が制度を作るのか」
エレノアは目を閉じた。窓の外では、塔の光が規則正しく明滅している。一拍。二拍。三拍。四拍。止まる気配はない。遅れもない。
「……分かっていれば、答える」
声は低い。普段の柔らかさがない。けれど、怒りでもない。探しているのだ。答えを、まだ探している。昨日の「だが」の続きを、今日は別の形で出してきた。「分かっていれば」という言葉が、「分かっていない」ことを意味している。
ミサはうなずいた。それ以上は聞かなかった。
塔の光が、規則正しく明滅している。今日は、一拍も遅れていない。
それが、むしろ怖い。
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夜になった。
王都の灯りが、眼下に広がっている。窓から見える範囲では、数百の火が点いている。油灯か、魔導照明か、あるいはただの篝火か。遠くで馬車の音がする。誰かが歌っている。歌詞は理解できる。翻訳処理が働いている。けれど、その歌の意味を「知っている」ことと、「理解している」ことは、別の気がする。
枕元のスマートフォンを握った。冷たい。電源ボタンを押す。反応しない。もう一度。しない。画面の隅——左下、フレームとガラスの境目あたり——に、小さな黒い点がある。昨日からあるものだ。けれど今、暗い部屋の中で見ていると、その点が微かに光を帯びた気がする。気のせいかもしれない。影かもしれない。けれど、指先で触れようとすると、またただの黒い点に戻っている。
(……)
ミサは目を閉じた。塔の明滅が、瞼の裏側で続いている。一拍。二拍。三拍。四拍。規則正しい。止まる気配はない。遅れもない。
今日は、なかった。
それが、いいことなのか、悪いことなのか。
分かっていない。まだ、分かっていない。
けれど、羊皮紙に書けば、消えない。明日も書く。明後日も書く。六行が七行になるまで。七行が八行になるまで。言葉が足りないなら、足りなくなるまで書き続ける。
ミサはスマートフォンを枕元の元に戻し、目を閉じた。
塔の光が、規則正しく明滅している。
一拍。二拍。三拍。四拍。
止まる気配はない。




