当たり前を疑う
# EP.5 当たり前を疑う
春の三日目は、白樺の匂いで始まった。
ミサは毛布の中で目を覚まし、まず枕元のスマートフォンに目をやった。
暗い。
電源ボタンを押す。反応なし。もう一度。しない。画面の隅——左下、フレームとガラスの境目あたり——に、小さな黒い点がある。昨日からあるものだ。けれど今、朝の光が斜めに差し込んでくると、その輪郭が少しだけ鮮明に見える。指先で触れる。
点はない。ただの画面だ。
ミサは毛布を外し、足元の石畳に足を下ろした。冷たい。昨日と同じだが、今日は何かが違う。何が変わったのか、まだ言葉にならない。ただ、昨日の「気のせいかもしれない」が、今日は少しだけ軽い。
机に向かう。羊皮紙が二枚、散らばっている。前两日に書いたメモだ。
**魔法の存在 ≠ 魔法の万能**
**加護 = 推薦状と寄付**
**ポーションは補助的(擦り傷三日・骨折二週間)**
**停電は月三回**
それらの傍らに、ミサはインク壺の蓋を開け、筆を浸した。そして、新しい一行を書く。
**共通点は?**
筆先が止まる。何が共通しているのか。魔法があるのに馬車が走っている。加護があるのに老人が待たされている。ポーションがあるのに傷が消えない。停電があるのに塔は光っている。全部、あるはずのものが、ない。あるいは、あるはずの力が、届いていない。
「……届いていない」
呟いた声に、自分でも少し驚いた。昨日までは「おかしい」「変だ」「多分違う」で済ませられていた感覚が、今日は別の言葉で立ち上がってくる。
窓の外では、塔の青白い光が規則正しく明滅している。心拍のように。止まる気配はない。ミサはその光を見つめながら、毛布を肩に掛けた。
「行ってくる」
誰にも言っていないのに、そう呟いた。
*
王都の市場は、朝の九時を過ぎた頃から賑わい始める。
ミサは護衛の衛兵二人と連れ立って、宮門を出た。春の風が石畳の上を走り、油灯の煙が街路に漂っている。馬車が一台、手押し車が三台、荷物を背負った男が一人。混在している。全部、並んで動いている。
衛兵は若い。二十歳前後で、頬骨が張っている。顔立ちよりも、目の奥にある疲労の方が目立つ。昨日のバルトのように事務的ではなく、ただ、そこに立っている。守っている。それだけのことだ。
ミサは荷台に目をやった。商人が野菜を並べている。その荷台の下——足元の板の裏側——に、小さな魔導板が二枚貼られている。薄く青い光が脈動している。野菜が冷えているのだろう。保存魔法だ。
「衛兵さん」ミサは歩きながら聞いた。「馬車を使わないの? 移動には」
衛兵は少しだけ首を傾げた。
「馬車は高くて、魔導板は安いからです」
短い答えだった。感情の色がない。事実を伝えているだけだ。けれどその一言が、羊皮紙の上で重く沈んだ。ミサは鞄から小さな羊皮紙の切れ端を取り出し、指先でなぞる。書く筆はない。代わりに、親指で羊皮紙の表面に線を引いた。
(魔法があるのに。コストで選別されている)
異世界小説では、馬車は「移動手段」だった。魔導板も「移動手段」だ。けれどここでは、同じ移動が、二つの価格帯に分かれている。金のある者は馬車。金のない者は手押し車と魔導板の補助。魔法があるのに、それが「誰でも使える力」になっていない。
市場の隅に目をやる。
治癒師の簡易テントの前で、人が並んでいる。三列くらいはある。先頭に立っているのは、白髪の老人だった。杖を突いている。顔色は悪い。唇が乾いてひび割れている。ミサは衛兵に尋ねた。
「あの人は、何時間待ってるの」
衛兵は答えた。
「三時間は経つでしょう」
ミサは息を呑んだ。
「……治癒師、一人だけ?」
「この市場には、一人です」
ポーションは補助的だ。バルトがそう言った。擦り傷なら三日。骨折なら二週間。感染が起これば、別の薬草が必要になる。つまり、即効性はない。つまり、時間がかかる。つまり——三時間待っても、治るかどうかは分からない。
ミサは衛兵を見た。
「加護を受けていない人が、病気で死んだら」
衛兵は少し黙った。風が、油灯の煙を流す。市場の声が遠くなる。馬車の輪が石を軋ませている。誰かが叫んでいる。野菜の値切りの声か、あるいは別の何か。
「……それは、神の意です」
ミサは、その言葉を聞いた瞬間に、胸の奥で何かが冷たくなった。怒りではない。悲しみでもない。もっと深いところで、骨のように硬い感覚だ。
衛兵は悪くない。彼も、そう教えられたのだ。「神の意です」。それは、この世界における最終的な答えだった。制度がそう決めていることを、信仰の上書きで覆っている。あるいは、信仰そのものを、制度の裏付けにしている。どっちでもいい。結果は同じだ。
ミサは羊皮紙の切れ端を取り出し、親指でなぞった。
**加護なし → 待たされる → 死ねば「神の意」**
**=制度がそう決めている**
筆はない。けれど、指先の圧力で羊皮紙に凹みをつけている。三本線と、その下の二行。
「……衛兵さん」ミサは言った。「加護って、どうやってもらうの?」
「神殿で祈願する。推薦状がある者が優先される。あるいは寄付を——」
「つまり、金持ちが先に」
衛兵はうなずいた。昨日、バルトも同じことを言った。「それが世の常です」。今日は「神の意です」。言葉が違う。でも、重さは同じだ。
ミサは市場を歩き続けた。馬車と手押し車が交差する。魔導板が荷台の下で青く光る。老人が杖を突いて待っている。油灯の煙が、春の風に流される。全部、当たり前だ。この世界では、これが当たり前だ。
けれどミサは知っている。異世界小説の中で、魔法がある世界の「当たり前」は、もっと楽だった。傷が治る。遠くへ移動できる。奇跡が起きる。それらが、ここではすべて「条件付き」になっている。誰かが先に。誰かが待たされる。誰かが死ねば「神の意」。
全部、あるはずのものが、届いていない。
*
午後二時を過ぎた頃、ミサは王宮の部屋に戻っていた。
エレノアが既に机に座っている。羊皮紙——ミサのメモ——を前に、長い沈黙を続けている。金髪の髪が、窓から差し込む午後の光を受けて淡く光っている。表情は変わらない。けれど、指先が羊皮紙の縁をなぞっている。一度、二度、三度。
ミサは向かいに座り、鞄から羊皮紙の切れ端を取り出した。親指で凹みをつけた三行を見せる。
「殿下」
エレノアは顔を上げた。
「これは、不便な世界じゃありません」
声は落ち着いている。けれど、昨日までの「多分」「気がする」がない。今日、ミサはその二つの言葉を捨てた。市場で老人の唇を見たとき、衛兵の「神の意です」を聞いたとき、その二つが不要になった。
「魔法があるのに馬車が走っている。加護があるのに老人が三時間待っている。治癒があるのにポーションが『補助的』だ」ミサは続けた。「これらは全部、本来ならそうじゃないはずのことが、そうになっています」
エレノアは何も言わなかった。羊皮紙の上で指を止めたまま、ミサを見ていた。
「何か、言葉の意味そのものが——」
ミサは言葉を切った。
エレノアが、顔を上げた。
「……何と違うのか」
問いだった。けれど、怒りではない。探しているのだ。答えを、探している。
ミサは指先で羊皮紙の縁をなぞりながら、言葉を探した。
「『治す』って、本来、傷がなくなるって意味でしょ? 異世界じゃなくても、現実でも、『治す』は、傷が消えることだ。痛みが引くこと。体に戻る」ミサの声が、少しずつ硬くなる。「でもここでは、傷が治るまで時間がかかる。三日。二週間。感染すれば別の薬草。つまり、『治す』の意味が、本来と違う」
一拍の沈黙。
「あるいは」ミサは続けた。「この世界では『治す』がそもそもそう定義されている。最初から、時間がかかるものと決まっている。どちらかだと、思います」
思います。多分ではない。気がするでもない。思います。まだ確証はない。けれど、昨日までの「たぶん一致してる。多分」からは、もう戻れない。
エレノアは長く目を閉じた。
窓の外では、塔の青白い光が明滅している。規則正しく。心拍のように。ミサも同時に窓を見た。一拍。二拍。三拍——
——四拍目が、少し遅い。
半拍だけ。けれど、確かに。
ミサの指先が、羊皮紙の上で震えた。
エレノアは目を閉じたまま、言った。
「ミサ」
声は低い。普段の柔らかさがない。
「我々は、そう教えられる」
一拍。
「それが世界の摂理だと」
ミサは息を止めた。
「だが……」
エレノアは答えなかった。「だが」の先に、何かがあった。けれど、言葉にはならなかった。代わりに、彼女は窓の外を指した。
雷鳴の塔。青白い光が、規則正しく明滅している。心拍のように。止まる気配はない。
ミサも見た。一拍。二拍。三拍——遅れ。四拍。五拍。六拍——遅れ。
半拍だ。先ほどは半拍だった。けれど今、もう一度数えると——
違う。
一拍だ。
規則正しいはずの間隔に、一拍だけ余分な沈黙が入っている。心拍が、一拍だけ止まる瞬間。不整脈のように。
ミサの指先が、今度は羊皮紙ではなく、机の表面を叩いた。一度。二度。塔の明滅に合わせて。三度目のとき、一拍遅れた。
二人とも、何も言わなかった。
*
夜になった。
エレノアは去った。扉が閉まる音。廊下の足音が遠ざかる。部屋が再び静まった。ミサは窓辺に座り、塔の光を数えた。
明滅。明滅。明滅——遅れ。明滅。明滅。明滅——遅れ。
一拍だ。半拍ではない。規則正しいはずの間隔に、一拍だけ余分な沈黙が入っている。先ほどは「気がする」だった。今は違う。数えている。指で叩いている。塔の光が、一拍だけ、止まっている。
ミサはスマートフォンを掌に載せた。
暗い画面に、自分の指の影が映る。冷たい。電源ボタンを押す。反応しない。もう一度。しない。けれど——
画面の隅に、あの小さな黒い点が、今度ははっきりと見える。光を帯びている。昨日は「気がする」だった。今日は違う。朝から見えている。触ると消えるが、また現れる。影ではない。
ミサは息を止めた。
指先で触れた。
点が変わる。
暗い画面に、三行の文字が浮かぶ。
《対象との接続を確認》
《翻訳処理を再開します》
《帰還条件:未達成》
前回見たのと同じ三行だ。昨日の夜——いや、前夜の深夜——に表示されたものと、一字も違わない。けれどミサは、今、前回と違う。
前回、これは夢かもしれないと思った。気のせいかもしれない。画面の故障か、あるいはこの世界の魔力が干渉しているのか。分からない。分からないまま、毛布に包まって眠った。
今回は違う。
塔の一拍の遅れが、この三行と関係している気がする——いや、気がするのではない。同時に起きている。塔が一拍止まる瞬間に、画面の点が光を帯びる。ミサは指で叩いた。明滅に合わせて。三度目のとき、一拍遅れた。同時に、掌の中のスマートフォンが微かに震えた。
気のせいかもしれない。
けれど、今日は「気がする」を使わない。
ミサはスマートフォンを机に置き、羊皮紙を取り上げた。前两日のメモの最後に——**魔法の存在 ≠ 魔法の万能**、**加護 = 推薦状と寄付**、**ポーションは補助的**、**停電は月三回**、**共通点は?**——その下に、大きく書く。
**まだ、違う**
その四文字を、親指でなぞった。そして、消した。羊皮紙の表面に付いたインクを、袖口でこする。跡が残る。けれど、消えた。
代わりに、書く。
**違う**
二文字だけ。まだがない。多分もない。気がするもない。ただ、違う。この世界の言葉は、本来の意味から欠落している。塔の一拍の遅れは、その欠落を管理している。あるいは——管理しようとしていて、間に合っていない。どちらかだと、思います。
いや、今日は「思います」も要らない。
ミサは筆を握り直し、その下に書いた。
**この世界の言葉は、本来の意味から欠落している。**
**そして、塔はそれを管理している。**
筆を置く。インクが、まだ乾いていない。羊皮紙の表面に、光を帯びている。
窓の外では、塔の光が明滅している。規則正しく。けれど、一拍、遅れて。心拍のように。止まる気配はない。
ミサはスマートフォンを見つめた。暗い画面に、自分の顔がぼんやりと映っている。青い目が、少しだけ疲れている。指先で電源ボタンを押す。反応しない。もう一度。しない。
けれど、画面の隅に、あの小さな黒い点が、微かに光を帯びている。
ミサは息を吐いた。そして、窓の外を見た。塔の青白い光が、一拍遅れて明滅している。規則正しく。けれど、一拍だけ、止まっている。
(……違う)
呟いた。声は、自分でも驚くほど小さかった。けれど、昨日までの「まだ、違う」からは、もう戻れない。
塔の光が、一拍だけ、止まる。
そして、また明滅する。




