王都の一日、足りない言葉
春の3日目の朝は、白樺の天井が薄く青かった。
ミサは毛布の中で目を覚まし、最初の意識が「これは現実か」だった。石畳。梁。鍋を叩く音。すべては昨日と変わっていない。枕元のスマートフォンは暗い。電源ボタンを押す。反応なし。もう一度。なし。画面左下の小さな黒い点は、まだそこにある。ミサは指先でそれをなぞり、ただの傷だと自分に言った。
扉を叩く音がした。三回。一定の間隔。
「王女殿下のお目覚めをお知らせいたします」
低い声。男の声だ。昨日の書記官バルトとは違う。より硬い。鉄のような。
ミサは毛布から手を伸ばし、足元の石に足を下ろした。冷たい。それから、言った。
「今日、外を見てみたい」
声は、自分でも驚くほど普通だった。
*
午後、王都の街路に踏み出した。
護衛の兵士が一人いる。三十代くらいで、左腕に古傷の跡がある。言葉数は少ない。質問には簡潔に答える。名前はレオナルドだと言った。それ以上は聞かなかった。
市場は、匂いから始まった。薬草の乾いた苦さ。焼きたてのパン。馬の糞。油灯の煙。叫び声が何重にも重なっている。羊皮紙の袋が、風で揺れている。
レオナルドが前を歩く。ミサは少し後ろに付き、見ていた。
薬草の老女が、客に声をかけている。羊皮紙の袋の中身を指先でつまみながら、口調に起伏はない。三十年ここで商いをしているのだろう。手のひらの傷が、乾いた皮のように固まっている。
「治すには三日で十分です」
老女は言った。客はうなずき、金貨を数枚、袋の口に落とした。金属が底に触れる音。それだけだ。
ミサは足を止めた。
(……治す)
異世界小説では、「治す」は即効性だった。血が引く。骨が鳴る。翌朝、何事もなかったかのように。けれどここでは、「三日で十分です」。十分。それは「間に合う」という意味なのか、それとも「これで足りる」という意味なのか。老女の声には、どちらの重さもなかった。ただ、事実を伝えている。
(……この世界では、「治す」が、少しだけ小さい)
*
治癒院は、市場から三つ目の角にあった。簡素な建物。木造で、窓が二つ。中から薬草の匂いが漏れている。骨折の少年が、母親に抱えられながら待っている。顔色が悪い。けれど泣いていない。
ミサは治療師の女に尋ねた。
「先生、この薬は効きますか?」
女は少し困った顔をした。言葉を選んでいる。ミサはその間を、見ていた。
「効きます。ただし、三日はかかります。そして、この薬はあなたの傷の三割ほどを――」
ミサが割り込んだ。
「つまり、全部は治らないの?」
女は筆を置いた。それから、言った。
「全部、というのは少し違います。傷は繋ぎますが、元通りにはなりません。完全に」
最後の「完全に」。その言葉が、妙に軽かった。まるで、当然のことのように。息をするように。
(……三割)
異世界小説の「治癒魔法」では、傷は完全に消える。血が引く。骨が鳴る。翌朝、何事もなかったかのように。ここでは「三割」で、「完全に」が軽い。「完全に」と言っているのに、完全に、ではない。
ミサは羊皮紙に書いた。大きく、はっきりと。
**完全に=完全に、ではない**
それから、その下に小さく書き足した。
(……この世界では、「完全に」という言葉を、完全に、使ってないのかもしれない)
レオナルドが振り返った。ミサは「何でもない」と笑った。彼はうなずき、前を向いた。それだけだった。
*
神殿地区の門前は、行列が長かった。
若い女が隣の人に尋ねている。「加護、もらえます?」列の先では、推薦状を差し出す音と、金袋を置く音が混ざっている。鐘の音が、規則正しく鳴っている。
ミサは羊皮紙のメモに「加護=購入」と書き、また書き足した。
**……違う。購入より少しだけ違う。何が違うか分からない**
街を歩く間、塔の青白い光が遠くに見える。規則正しい明滅。心拍のように。けれど——ミサは目を凝らした。昨日の一拍の遅れ。今日も、数えている。三十七回で明。三十八回で暗。三十七回で明。三十八回で暗。……三十九回で、暗。
一拍、長い。
(……気のせいかもしれない)
*
夜、ミサは部屋に戻り、羊皮紙に一日の観察を並べた。
加護は購入。治すは三割。完全にが軽い。祈ったと登録したの混用。全部、言葉の「中身」が、少しだけ小さい。小説の世界の言葉より、この世界の言葉が、少しだけ小さい。
扉が開いた。エレノアだった。簡素な銀の髪留め。白い上着に紺色のスカート。背筋がまっすぐ伸びている。
「どうだったか」
ミサは羊皮紙を差し出した。エレノアは読み、何も言わない。しばらくして、言った。
「我々にはそれで十分です」
声に感情はない。バルトと似ている。けれどバルトにはなかったものが、エレノアにはある。責任。この世界を知っていて、それでも「それで十分です」と言わざるを得ない重さ。
ミサは聞き返した。
「……十分ですか」
エレノアは微笑んだ。困ったような、でも温かい笑顔。
「あなたには、まだ足りないのだろう」
扉が閉まる。廊下の足音が遠ざかる。
ミサは窓の外を見た。塔の青白い光が、規則正しく明滅している。心拍のように。一拍。遅い。スマートフォンを握る。冷たい。黒い点が、微かに光を帯びている気がする。
気がする。




