異世界の常識を学ぶ
春の二日目は、白樺の匂いで始まった。
ミサは石畳の床に敷かれた毛布の上で目を覚まし、まず天井を見た。交差する梁が、朝の光を淡く受けている。窓が二つあり、外では誰かが鍋を叩いている音がした。金属と木の衝突音。この世界には金属がある。木もある。
枕元に置かれたスマートフォンは、依然として暗い。画面に指先を当てると、冷たい。電源ボタンを押しても、何も起きない。昨日の夜と変わらない。
(……まだ、起動してない)
そう思った瞬間、廊下から足音が近づいてきた。複数の。革靴が石を踏む、規則正しいリズム。そして扉の前に止まる音。
「王女殿下のお目覚めをお知らせいたします」
声は低い男の声だった。敬語の構造も、語尾の形も、全部——意味が、頭の中で勝手に組み上がる。翻訳されていないのではない。翻訳という作業を挟まずに、そのまま理解されている。昨日までは、この言葉の連なりを「音」として聞くしかなかった。けれど今は、意味が音と同時に届く。
ミサは息を詰まらせた。
扉が開く前に、彼女は声を発した。
「……通じる」
男は少しだけ目を見開いた。
「……そうか」
その一言で、会話は終わった。男はうなずき、廊下へ戻っていった。足音が遠ざかる。
ミサは毛布の中から手を伸ばし、スマートフォンを握りしめた。画面はまだ暗い。けれど、指先が震えているのは、機械のせいでない。
(翻訳処理が……働いてる)
安堵が胸の奥で膨らみ、同時に、別の感覚がその下で冷たく沈んだ。この世界の「言葉」は、本当に自分の知っているものなのか。「王女」「殿下」「お知らせ」——これらは日本語だ。けれど、「王女」という概念の重さ、「殿下」に込められた距離感。それらが、自分が知っている意味と完全に一致している保証はない。
(……たぶん、一致してる。多分)
「多分」で済ませるしかない自分に、ミサは小さく息を吐いた。
扉が再び開いたとき、金髪の女性が立っていた。簡素な銀の髪留め。白い上着に紺色のスカート。背筋がまっすぐ伸びている。昨日見た王女、エレノア・フォン・アルデンだ。
「言葉、通じたか」
問いではなく、確認だった。ミサはうなずいた。
「……そうか」
エレノアの声に、わずかな安堵と、それとは別の何かが混ざっていた。警戒か、あるいは期待か。ミサにはまだ判断がつかなかった。
「今日は、少し休め」エレノアが言った。「午後に、書記官を付ける。王都の制度について、知りたいことを聞け」
「……制度?」
「この国の仕組みだ。魔法も、医療も、加護も。全部、その中に組み込まれている」
エレノアはうなずくと、扉を閉めた。廊下の足音が遠ざかる。
部屋が再び静まった。ミサは毛布から足を下ろし、石畳の冷たさを感じた。机の上には、羊皮紙とインク壺が置かれていた。昨日からあるものだが、まだ触ったことがない。指先で羊皮紙の縁をなぞると、ざらついた感触が伝わってきた。
(……午後に、ね)
ミサは窓の外を見た。石畳の道に馬車が一台走っている。煙突から黒い煙。遠く——かなり遠くに見えるが——塔のてっぺんに青白い光が脈動している。規則正しい間隔で、明滅している。昨日見たのと変わらない。心拍のように。
(……変わらない)
その「変わらない」が、妙に重かった。
*
午後の光が斜めに差し込んできた頃、扉をノックする音がした。三回。一定の間隔で。
ミサが「どうぞ」と言うと——この世界では「どうぞ」が通じるのか少し不安だったが——扉が開いた。
男は四十代くらいだった。痩せていて、頬骨が張っている。鼻には眼鏡をかけている。この世界で眼鏡をかける人物は、おそらく稀有だろう。着ているのは無地の灰色の長衣で、胸元には小さな紋章が刺繍されていた。手には羊皮紙の巻物が一つ。
「宮廷書記官、バルトである」男は言った。「王女殿下より命じられ、この国の制度について説明する。質問があれば、その都度尋ねよ」
それだけ言って、机に座った。巻物を広げる動作が事務的だった。感情の色がほとんどない。
ミサも向かいに座り、羊皮紙とインクを前にした。
「まず、魔法から行こう」バルトが言った。「質問は?」
「……魔法って、誰でも使えるの?」
「使える。ただし、魔力の量と、訓練の期間、そして加護の有無が関係する」
「加護」
ミサは言葉を繰り返した。異世界小説で見た「神の恩寵」。主人公だけが持つ特別な力。そういうイメージだった。
「加護って、どうやってもらうの?」
バルトは眼鏡の奥からミサを見た。
「神殿で祈願する。ただし、推薦状がある者が優先される」
「推薦状……誰からの?」
「貴族か、神殿の神官か。あるいは、寄付を積んだ者も——」
「つまり」ミサが割り込んだ。「金持ちが先に受けられる」
バルトはうなずいた。
「それが世の常です」
声に感情はない。事実を伝えているだけだ。けれどその一言が、羊皮紙の上で重く沈んだ。ミサはインクの先端を握りしめ、指先が白くなった。
(……金持ちが先に)
異世界小説では、加護は「選ばれし者」に与えられる。運命だ。宿命だ。けれどここでは、推薦状と寄付。つまり、人脈とお金。
「医療はどうなってるの?」ミサは続けた。「怪我をしたとき、治癒ポーションで——」
「ポーションは補助的なものです」バルトが即答した。「擦り傷なら三日。骨折なら二週間。感染が起これば、別の薬草が必要になります」
ミサは息を呑んだ。
(……補助的)
異世界小説では、ポーション一本で即回復する。血飛沫が飛び散った直後、赤い瓶を飲むと「ぷしゅん」と音がして傷が消える。そういう演出だった。ここでは、三日。二週間。感染すれば別の薬草。つまり、経過観察が必要だ。つまり、時間がかかる。つまり——
「……待って」ミサは羊皮紙に書き始めた。「ポーションは補助的。擦り傷三日。骨折二週間。感染で追加の薬草。つまり、即効性はない」
バルトは何も言わなかった。
「魔力供給は?」ミサが筆を止めた。「塔からの——あの青い光。あれで街の魔法設備が動いてるんでしょ? 安定してるの?」
「雷鳴の塔から魔力を供給している。ただし、先月も三か所で停電があった」
「停電」
ミサは言葉を繰り返した。この世界には「停電」という言葉がある。けれどその意味は、自分が知っている「停電」と微妙に違う気がする。魔力が止まること。電気ではなく、何かが止まること。
「……停電のとき、何が起きるの?」
「照明が消える。冷暖房が止まる。医療設備の一部が機能しない」
ミサは羊皮紙に書き続けた。指先が速い。インクが滲む。
「魔法は維持費がかかる」バルトが補足した。「装置の保守、魔力回路の点検、技術者の手配。すべて費用がかかる。それが支払えない者は——」
「手作業でやる」ミサが言った。
バルトは眼鏡を指先で押し上げ、うなずいた。
「それが世の常です」
二回目だった。同じ言葉。同じ調子。事実を伝えているだけだ。けれどミサの胸の奥で、その言葉が反芻され始めた。「世の常」。つまり、変えられない。つまり、普通だ。つまり——
(……普通って、誰が決めたの)
バルトは巻物を丸めると、立ち上がった。説明は終わったらしい。
「以上である」男は言った。「質問があれば、王女殿下を通じて伝えよ」
扉が閉まった。足音が遠ざかる。
ミサは羊皮紙を見つめた。書き留めた行が並んでいる。加護。医療。魔力供給。停電。維持費。手作業。全部、普通だ。全部、「世の常」だ。けれど、自分が知っている世界——異世界小説の世界——では、そうではなかった。
(……おかしい)
おかしいというほどではない。まだ。けれど、どこかがずれている。言葉の意味が、少しだけ違う。
*
扉が開いたとき、ミサは羊皮紙に顔を伏せていた。インクで指先が汚れていることに気づいていない。
「バルトは去ったか」
エレノアの声音だった。柔らかい。公の場での格式ばった口調ではなく、この部屋だけで使う、少しだけ低い声。
ミサは顔を上げ、うなずいた。それから、羊皮紙を前に滑らせた。
「王女殿下。確認させてください」
読み上げた。一行ずつ。
「加護の取得には推薦状か寄付が必要。医療用のポーションは補助的で即効性はない。魔力供給は不安定で停電が起きる。魔法設備の維持には費用がかかる。支払えない者は手作業で——」
ミサは筆を置いた。
「……魔法があるのに、なぜ洗濯も炊事も手作業なの? なぜ遠くに行くのに馬車なの?」
エレノアは少し黙った。窓の外から光が差し込み、彼女の金髪を淡く照らしている。それから、答えた。
「魔法は、魔法だから便利だ」
一拍。
「ただし、魔法を維持するには魔力の供給と装置の保守が必要だ。そのコストを支払えない者は、手作業でやる」
同じことをバルトも言った。けれどエレノアの声には、バルトになかった何かが混ざっていた。諦めか、あるいは——責任。この世界を知っていて、それでも「それが我々の世界です」と言わざるを得ない重さ。
ミサは羊皮紙に筆を走らせた。大きく、はっきりと。
**魔法の存在 ≠ 魔法の万能**
そしてその下に、小さく。
**……まだ、違う。何かが足りない**
筆先が止まった。「何かが足りない」。何が? 言葉の意味か。仕組みか。それとも——この世界の人々が「当たり前」と思っていることの根拠そのものが、どこかに欠けているのか。
分からない。まだ、分からない。
エレノアは羊皮紙を覗き込み、何も言わずにうなずいた。「よく聞けた」とだけ言って、扉へ向かった。
「明日も来るよ」
「……うん」
扉が閉まった。ミサは筆を置き、窓の外を見た。夕方の光が、石畳の道を橙色に染めている。塔の青白い光が、規則正しく明滅している。心拍のように。止まる気配はない。
(……まだ、違う)
*
夜になった。
王都の灯りが、眼下に広がっている。窓から見える範囲では、数十——いや、数百の火が点いている。油灯か、魔導照明か、あるいはただの篝火か。遠くで馬車の音がする。誰かが歌っている。歌詞は理解できる。翻訳処理が働いている。けれど、その歌の意味を「知っている」ことと、「理解している」ことは、別の気がする。
塔の青白い光が、規則正しく明滅している。
廊下から声が漏れてきた。二人の男の声。衛兵だろう。ミサは窓辺に座ったまま、足を組んでいた。意図して聞こうとしたのではない。ただ、夜が静かすぎた。
「……異国の娘、本当に無事か」
低い声。少しだけ不安を滲ませている。
「宮廷医は問題なしと言っているが」
もう一人の声。事務的だが、確信には欠けている。
「陛下のお命で、一週間だけ滞在許可が出たのだ」
一週間。
ミサの指先が、膝の上で止まった。七日間。その後はどうなるのか。帰る場所があるのか。この世界に帰る場所はあるのか。元の世界に——
(……元の世界)
枕元のスマートフォンを握った。冷たい。電源ボタンを押す。反応しない。もう一度。しない。画面の隅——左下、フレームとガラスの境目あたり——に、小さな黒い点がある。昨日からあるものだ。けれど今、暗い部屋の中で見ていると、その点が微かに光を帯びている気がする。気のせいかもしれない。影かもしれない。けれど、指先で触れようとすると、またただの黒い点に戻っている。
(……気の、せい)
扉が開いた。夜風と一緒に、エレノアの声が混ざってくる。
「眠れぬか」
ミサは窓辺から身を翻した。
「……少し」
うなずいた。そして、言った。
「王女殿下。この世界は、私が知っているのと少し違うんです」
エレノアは微笑んだ。困ったような、でも温かい笑顔。
「我々には、この世界が全てです」
沈黙が落ちた。
窓の外では、塔の青白い光が明滅している。規則正しい間隔で。心拍のように。けれど——ミサは目を凝らした。一拍。明滅の間隔に、一拍だけ遅れがあった気がする。いつもと違う。あるいは、気のせいだ。昨日からずっと見ていて、初めて気づいたことかもしれない。
(……まだ、違う)
声には出さなかった。けれど、その言葉が胸の奥で静かに沈殿していくのが、自分でも分かった。
エレノアは何も言わなかった。ただ、ミサの隣に立ち、同じ窓の外を見ていた。塔の光が、一拍、遅れて明滅する。
王都の灯りが、遠くで揺れている。誰かが歌っている。馬車が走っている。この世界は、何事もなかったかのように動き続けていた。
まだだ。




