王宮での目覚め
第2話 王宮での目覚め
見慣れない天井だった。
白樺の木目が、朝の光で淡く浮かんでいる。自分の部屋の天井は、白いペンキに塗られたコンクリートだ。壁紙の端が少し剥がれていて、それを直そうと思いつつ三ヶ月放置している。あれを思い出しながら、ミサ・カーターは目を瞬かせた。
白いシーツ。
自分の手を見る。指先まで白樺色の光を受けている。枕元の小さな木製テーブルには、水差しに生けられた花が一つだけあった。名前も知らない花。紫色の苞が、朝の風でかすかに揺れている。
「……ん」
声が出た。英語ではなかった。日本語でもなかった。けれど、その音が自分の喉から出たことを、ミサははっきりと感じていた。
背後で、低い声がする。
「目を覚ましたか」
振り向く。部屋の入口に、黒い鎧を纏った男が二人立っていた。顔の半分が兜の影に隠れている。片方の手に、長い剣を垂直に構えている。もう片方は、腰の帯に手を当てていた。
ミサは寝台の上に座り上がった。シーツが膝まで垂れ下がっている。足元の床は石だった。冷たい。
「ここ……どこ?」
自分が発した言葉は、先ほどと同じように、英語でも日本語でもなかった。それなのに、二人の鎧の男は即座に反応した。
「異邦人」
片方の男が言った。短く、事務的に。
「道端で倒れていたのは、お前か」
ミサは一瞬、言葉を失った。
道端。
倒れている。
昨日——いや、数時間前まで——自分の部屋のベッドにいたはずだ。スマートフォンを胸元に抱えて眠った。午前零時を少し過ぎたころ、画面が点灯した気がする。《対象との接続を確認》《翻訳処理を再開します》《帰還条件:未達成》。その三行を見た、と記憶している。見た、と思った。夢だったかもしれない。気のせいだったかもしれない。
けれど、この白樺の天井は、夢には見えなかった。
「……はい」
ミサはうなずいた。声は震えていなかった。驚くほど平静だった。
鎧の男は、それ以上何も聞かなかった。ただ、寝台のそばまで一歩近づき、剣の柄から手を離した。
「王女殿下がお待ちです。ついてきてください」
「……王女?」
ミサは立ち上がった。足が少しふらついたが、すぐに立てた。シーツを握ったまま、男の後について歩く。廊下は石でできていて、壁には蝋燭の跡が残っていた。窓から差し込む光が、床に細長い四角形を描いている。
「ちょっと待って」
ミサは足を止めた。
「ここ、どこ?」
「白銀城。王宮です」
「……あー」
わかった。
わかった、わかった、わかった。
エルディア王国の王宮。白銀城。道端で倒れていた異邦人。黒い鎧の護衛。金髪の——たぶん——王女。
全部、異世界小説の定型だ。
ミサは、心の中で小さく叫んでいた。
(主人公、私?)
(転移した? 転生じゃなくて、転移? 年齢もそのまま? 十七?)
(しかも、言葉が通じる!? 翻訳処理って、あのスマホに表示されたやつとか関係あるの?)
(……でも、スマホは暗いままだったよね)
鞄——いや、この世界では何と呼べばいいのか分からない。肩に掛かっていた布製の袋の中を、指先で探る。スマートフォンが、冷たい硬さでそこにあった。画面は暗い。電源ボタンを押しても反応しない。昨日の夜と同じだ。
(……まだ、起動してない)
「王女殿下がお待ちです」
鎧の男は、もう一度同じことを言った。待ち焦れてはいなかったが、繰り返すことは惜しまなかったらしい。
ミサは深く息を吸い、歩き出した。
廊下の突き当たりで、扉が開いた。
光が溢れた。
部屋は広くて、高い天井に白樺の梁が交差している。窓が二つあり、朝の空が青く広がっている。中央には、木製の机と椅子。壁際には本棚があり、羊皮紙の巻物が整然と並んでいる。
そして、その向こうに、一人の少女——いや、若い女性——が立っていた。
金髪だった。肩まで伸ばした直毛で、王冠ではなく、簡素な銀の髪留めだけが光っている。着ているのは、白い上着に紺色のスカート。派手な装飾はない。けれど、背筋がまっすぐ伸びていて、目を合わせた瞬間、この人は何かを「務めている」人間だとミサは感じた。
王女だ。
「……あなたは」
ミサの声が、小さくなった。
女性は、ミサの額に指先を当てた。冷たい。金属の指輪が触れた。数秒後、指が離される。
「熱はない」
安堵した顔だった。けれど、すぐに元に戻る。
「そうだ」
女性が言った。声は落ち着いていた。
「エルディア王国の王女、エレノア・フォン・アルデンだ」
ミサは、心の中で名前の音を反芻した。
エルディア。アルデン。フォン。
全部、異世界小説の命名ルールだ。〜王国。〜・フォン・〜。たぶん、この世界の貴族は「フォン」を名乗るのだろう。あるいは、この世界には「フォン」という概念がないだけで、ミサが勝手にそう解釈しているだけかもしれない。
(……でも、私は「フォン」って言ったよな)
(つまり、翻訳処理が働いてる? 名前も通訳してる?)
「道端で倒れていたとき、衛兵が見つけてくれた」エレノアが続けた。「意識を取り戻すまで、一夜を要した。身体に大きな傷はない。宮廷医の確認は済んでいる」
「……ありがとうございます」
ミサは頭を下げた。自然に、体が動いた。この世界ではそうするのだろう。あるいは、アメリカの習慣がそのまま出てしまったのかもしれない。
エレノアは、うなずきだけで応じた。
「その鏡板は何だ?」
ミサの視線が、自分の手にあったスマートフォンへ落ちた。いつの間にか取り出していた。黒い画面。電源ボタン。指紋認証の跡。全部、自分のものだ。けれど、この世界では——
「……スマホ、だよ」
呟いた。訂正はしなかった。エレノアは眉をわずかに寄せたが、追及しなかった。
「精巧な鏡板だ」女性が言った。「裏面には、文字のような刻印がある。だが、読み取れない」
「あー、うん」
ミサはスマートフォンを掌に載せたまま、窓の外を見た。
石畳の道。馬車。煙突から立ち上る黒い煙。遠く——かなり遠くに見えるが——塔のてっぺんに、青白い光が脈動している。規則的な間隔で、明滅している。心拍のように。
「……あれ、何?」
エレノアが窓の外を指さした。
「雷鳴の塔だ」
「うん。知ってる」ミサは即答し、それから訂正した。「いや、知ってない。見たことある。小説で」
「今日は祝祭日だから、街は混み合っている。外に出たいなら、休んだ方がいいが」
「……出たい」
エレノアは一瞬だけ目を見開き、それから少し困ったように笑った。
「そうだな。護衛を付けるよ」
「ありがとう」
ミサは微笑んだ。
(主人公、私。王女に保護されて、祝祭日に街へ出る。異世界小説の序盤、だいたいこうなる)
(……でも、ちょっと違う気がする)
その違和感は、まだ言葉にならなかった。
*
扉が再び開いたとき、ミサはエレノアと向かい合って立っていた。
「医者が来る」女性が言った。「最後の確認だ」
「あ、うん」
入ってきたのは、四十代くらいの男だった。白と灰の袍を着て、手には小さな瓶を三つ持っている。聖水だろうか。あるいは薬液。ミサには分からなかった。
男は寝台のそばに膝をつき、ミサの手首を掴んだ。指先で脈を確認している。それから、肘の内側、首筋、足首と順に見ていった。
「問題ない」
立ち上がり、袍から小さな巻物を取り出した。羊皮紙の上に、インクで書かれた文字がある。ミサは読めなかった。けれど——
(……意味だけが浮かぶ)
翻訳処理だ。たぶん。スマホが暗いのに、なぜか言葉の意味が頭に入ってくる。昨日の夜、あの三行を見たときと同じ感覚だ。
「聖水と祈文で傷を癒した」医者が言った。「加護を介して」
ミサは首を傾げた。
「……魔法で治したんじゃないの?」
男は一瞬、止まった。それから、何気ない顔で答えた。
「加護を介して治した。神殿への登録がなければ、効力は三日で消える」
「……三日で?」
ミサは繰り返した。
医者は、それ以上説明しなかった。たぶん、説明する価値がないと思ったのだろう。この世界では、それが普通なのだ。加護を受けるには神殿に登録する。登録しなければ、効力は三日で消える。それは——
(……保険? 契約?)
(医療行為に「契約」が必要で、期間限定で、更新しないと切れる?)
(異世界小説では、たぶんこうはならない)
「ありがとうございます」とミサは言った。「……って、もう言いましたけど」
医者は小さくうなずき、瓶を袍に戻した。扉の外に出る際、エレノアに何か短い報告をした。女性はうなずいて、男を見送った。
部屋が再び静まった。
ミサは窓辺に移動していた。石畳の道が、眼下に広がっている。馬車が三台、並んで走っている。煙突から黒い煙。人々が鍋に火を焚いている。誰かが神殿の方へ歩いていく。誰も「魔法で」とは言わない。誰も、おかしいと思っていない。
(……おかしくない?)
ミサは、窓ガラス——いや、ガラスではなく石の隙間——に額を近づけた。
「エレノア」
「ん?」
「魔法があるのに、馬車とか、手作業とか……おかしくない?」
女性の声が、少しだけ止まった。
「楽?」と聞き返した。「洗濯とか、炊事とか、移動とか。魔法があるのに、それらが当たり前で——」
ミサは言葉を探した。
「……当たり前、なんだ」
エレノアが、少し困ったように笑った。
「我々はそれが当たり前だから、おかしいと思ったことはないが」
沈黙が、数秒続いた。
窓の外では、鐘の音が鳴り始めた。祝祭が始まる。人々の声が、遠くから波のように上がってくる。笑い声。叫び声。馬の嘶き。
ミサはスマートフォンを掌に載せたまま、暗い画面を見つめた。電源ボタンを押した。反応しない。もう一度。しない。
(……まだ、違う)
その言葉が、胸の奥から浮かび上がった。
自分の記憶のものなのか、この世界のものなのか、区別がつかない。昨日の夜、スマホの画面に表示された三行——《対象との接続を確認》《翻訳処理を再開します》《帰還条件:未達成》——と何らかの関係がある気がする。けれど、確信はない。夢だったかもしれない。
「……まだ、違う」
呟いた。声は、自分でも驚くほど小さかった。
エレノアは何も言わなかった。ただ、ミサの横に立ち、同じ窓の外を見ていた。青白い光が、塔のてっぺんで規則正しく明滅している。心拍のように。止まる気配はない。
「……ちょっと、外に出てくる」
ミサは言った。
エレノアはうなずいた。
「護衛を付けるよ」
「ありがとう」
ミサは微笑み、窓辺から降りた。足元の石が冷たい。白樺の天井から遠ざかりながら、彼女は心の中で小さく呟いていた。
(異世界小説の主人公、私)
(……でも、まだ、違う)




