いつもと同じ、退屈で大切な一日
朝七時十二分。
ミサ・カーターは、枕元で鳴り続けるスマートフォンを、目を閉じたまま探っていた。
指先が画面に触れる。
アラームが止まる。
静寂が戻る。
それから、三秒。
「……あと五分」
誰に聞かせるでもなく、ミサはつぶやいた。
もちろん、あと五分で起きるつもりなど、ほとんどなかった。
昨日もそうだった。
一昨日もそうだった。
先週だって、同じことを言っていた。
そして毎朝、最終的には母親に起こされることになる。
「ミサ! 起きてるの?」
階下から声が飛んできた。
「起きてるー!」
「その返事をする人は、たいてい起きてないのよ!」
「今日は違うもん!」
ミサは布団を頭まで引き上げた。
違う。
今日は本当に違う。
なぜなら、昨夜は午前零時半に寝たからだ。
普段なら一時を過ぎることもあるのだから、これは大きな進歩だった。
もっとも、寝る直前まで読んでいた小説が面白すぎて、最後の一章だけ、最後の一章だけと読み続けた結果なのだが。
ベッドの脇に置いたスマートフォンを手に取る。
画面には、友人から届いたメッセージが三件。
学校の連絡アプリからのお知らせが一件。
そして、昨夜読み終えた小説の続巻発売を知らせる通知が表示されていた。
「出た!」
ミサは勢いよく起き上がった。
眠気など、きれいさっぱり吹き飛んだ。
発売日は来週だと思っていたのに、どうやら今日だったらしい。
しかも、予約販売の開始時刻は今朝の八時。
学校へ行く前に予約できる。
これは幸先がいい。
「よし、今日も頑張ろう!」
先ほどまで布団にしがみついていた少女とは思えないほど、元気な声だった。
ミサはベッドから飛び降り、クローゼットを開けた。
ハンガーに掛かった制服を取り出す。
白いブラウス。
紺色のスカート。
学校指定のカーディガン。
着替えながら、彼女は鏡の中の自分を見た。
肩まで伸びた明るい茶色の髪。
少し眠そうな青い目。
身長は同年代の女子の平均くらい。
どこにでもいる、ごく普通の高校生。
少なくとも、自分ではそう思っている。
ただし、ひとつだけ、周囲の人間からよく指摘されることがあった。
ミサは、気になったことを放っておけない。
それが宿題なら、納得できるまで調べる。
友人が困っていれば、事情を聞かずにはいられない。
映画の設定に矛盾があれば、エンドロールのあとまで考え込む。
そして、小説の世界に疑問が生まれれば、物語が終わってからも答えを探し続ける。
本人に言わせれば、それは単に好奇心が強いだけだった。
母親に言わせれば、余計なことに首を突っ込みすぎる性格だった。
どちらが正しいのか、ミサには分からない。
ただ、彼女には昔から、どうしても気になることがあった。
それは、物語の中で当たり前のように使われている言葉だった。
例えば、魔法。
例えば、奇跡。
例えば、神の加護。
そうした言葉は、物語の中では便利に使われる。
傷が治る。
遠くへ移動できる。
危機を予知できる。
けれど、その仕組みについて、きちんと説明されている作品は意外と少ない。
なぜ傷が治るのか。
何を代償にしているのか。
どこまでが可能で、どこからが不可能なのか。
ミサは、そういう細かなところが気になってしまうのだった。
「……まあ、現実には魔法なんてないんだけどね」
鏡に向かってそう言い、ミサは部屋を出た。
このときの彼女は、自分が数時間後、その言葉を何度も思い返すことになるとは、想像すらしていなかった。
*
朝食は、トーストと目玉焼き、それにオレンジジュースだった。
ミサはダイニングテーブルに座り、スマートフォンで小説の発売情報を確認していた。
「食べながら画面を見ない」
母親が、フライパンを洗いながら言った。
「見てるのは画面じゃなくて、発売情報」
「それを画面を見るって言うの」
「でも、今確認しないと予約を忘れちゃうかもしれないし」
「予約を忘れたくらいで世界は滅びないわよ」
「それは分かってるけど……」
ミサは不満そうにスマートフォンを伏せた。
母親は笑った。
「そんなに面白いの? その本」
「面白いよ。主人公が異世界に転移する話なんだけど、よくある冒険ものとはちょっと違うの」
「また異世界?」
「また異世界」
ミサは胸を張った。
「だって、考えてみてよ。もし魔法が本当に使えたら、生活ってどう変わると思う?」
「そうねえ。洗濯が楽になるんじゃない?」
「そういう話じゃなくて!」
「お掃除もできるかしら」
「お母さん!」
母親は楽しそうに笑いながら、ミサの前に牛乳を置いた。
「冗談よ。で、どんな話なの?」
ミサは少し考えた。
「主人公が、魔法のある世界に行くんだけど、その世界って、実は魔法があるわりに不便なの。遠くに行くのに何日もかかるし、病気も簡単には治らないし、魔法使いだって、何でもできるわけじゃない」
「それなら、魔法がある意味はあるの?」
「それを考えるのが面白いんだよ!」
ミサは身を乗り出した。
「魔法が存在することと、魔法で何でも解決できることは違うでしょ? 例えば、傷を治せる魔法があっても、誰でも使えるとは限らない。使うのにお金がかかるかもしれないし、特別な資格が必要かもしれない。使える人が遠くに住んでいたら、助けてもらうまで時間がかかるかもしれない」
「なるほどね」
「それに、もし魔法で物を運べるなら、運送業はどうなるのかとか。もし天気を予測できるなら、農業はどう変わるのかとか。もし本当に未来が見えるなら、裁判や政治だって変わるはずでしょ?」
言いながら、ミサの声に熱がこもっていく。
彼女は、こういう話をしているときが一番楽しかった。
物語の中の世界を、ただ眺めるのではなく、その世界で生きる人々の立場になって考える。
魔法があるなら、社会はどうなるのか。
奇跡があるなら、人々は何を信じるのか。
神が本当に存在するなら、法律や政治はどう変化するのか。
そうしたことを想像するだけで、いくらでも時間が過ぎてしまう。
「あなた、本当にその手の話が好きね」
「うん」
ミサは素直にうなずいた。
「いつか、そういう世界を実際に見てみたいな」
「小説の中で?」
「もちろん。現実にそんなことが起きるわけないじゃない」
母親は、それ以上何も言わなかった。
ミサはトーストの最後の一切れを口に入れ、時計を見た。
午前七時四十三分。
「やばっ、遅れる!」
慌てて立ち上がり、食器をシンクへ運ぶ。
鞄を肩に掛け、玄関でスニーカーを履く。
「行ってきます!」
「気をつけてね!」
玄関の扉が閉まった。
いつもと同じ朝だった。
*
学校までの道のりは、徒歩とバスを合わせて二十分ほどだった。
ミサが通っているのは、住宅街の外れにある公立高校だ。
特別に優秀な学校というわけでもなければ、問題の多い学校というわけでもない。
生徒たちは授業を受け、試験に悩み、友人と話し、週末の予定を考える。
教師たちは宿題を出し、提出物を確認し、時折、生徒たちの将来について真剣な話をする。
それだけの、普通の学校だった。
ミサはバスを降りると、校門の前で待っていた友人を見つけた。
「ミサ!」
手を振っているのは、エミリー・ジョーンズ。
ミサとは中学校からの付き合いで、好きな映画も、よく聴く音楽も、ほとんど違う。
それでも、なぜか気が合った。
エミリーは現実的な性格で、ミサが何かを思いつくと、まず実現可能性を考える。
ミサは、エミリーが何かを諦めそうになると、別の方法を探そうとする。
お互いに相手の考え方を理解しているとは言い難かったが、一緒にいると退屈しなかった。
「昨日の課題、終わった?」
エミリーが尋ねた。
「もちろん」
「本当に?」
「……八割くらい」
「それ、終わったって言わないから」
「残りの二割は、答えを見直すだけだから!」
「昨日も同じこと言ってなかった?」
ミサは視線をそらした。
「細かいことは気にしない」
「あなたがそれを言う?」
二人は笑いながら校舎へ入った。
教室では、すでに何人かの生徒が席に座っていた。
窓際では、週末のパーティーについて話している女子たちがいる。
教室の後ろでは、男子たちが昨夜のバスケットボールの試合について盛り上がっていた。
ミサは自分の席に鞄を置き、ノートを取り出した。
午前中の授業は、数学、歴史、化学。
どれも嫌いではない。
ただし、好きな順番に並べるなら、歴史が一番だった。
過去の人々が何を考え、なぜその選択をし、結果として社会がどう変わったのか。
歴史を学ぶということは、単に年号や人物名を覚えることではない。
ミサはそう考えていた。
同じ出来事でも、立場が違えば見え方が変わる。
ある人にとっての英雄は、別の人にとっては侵略者かもしれない。
ある時代の常識が、別の時代では非常識になることもある。
そして、後世の人間は、過去の出来事を自分たちの価値観で解釈してしまう。
それが、歴史の面白さだと思っていた。
その日の歴史の授業で、教師は黒板に一つの言葉を書いた。
「文明」
「文明とは何か。皆さんなら、どう定義しますか?」
生徒たちが、それぞれ答えを口にする。
「都市があること」
「文字を使うこと」
「法律があること」
「科学技術が発達していること」
教師は一つひとつの答えにうなずいた。
「どれも重要な要素です。しかし、文明を一つの条件だけで定義することはできません。技術が発達していても、社会制度が整っているとは限らない。文字があっても、すべての人が教育を受けられるとは限らない」
ミサはノートを取りながら、ふと考えた。
もしも魔法のある世界があったら。
そこでは、何をもって文明が発達していると判断するのだろう。
空を飛べる人がいるだけで、文明は進んでいると言えるのか。
病気を治す魔法があっても、一部の人間しか使えなければどうなのか。
古代の遺跡に、現代の技術を超える仕組みが残されていたら、その世界は本当に中世なのだろうか。
ミサはノートの余白に、小さく書き込んだ。
『魔法がある世界の文明は、何で測る?』
そして、その下にもう一行。
『魔法の存在と、社会の発展は同じではない』
自分で書いておきながら、少し笑ってしまった。
また異世界小説のことを考えている。
我ながら、よく飽きないものだ。
*
昼休み。
ミサとエミリーは、校舎の裏手にあるベンチで昼食を取っていた。
空はよく晴れていた。
風は涼しく、木々の葉がかすかに揺れている。
ミサはサンドイッチを食べながら、朝に見つけた小説の発売情報をエミリーに見せた。
「ねえ、これ見て。新刊が今日から予約できるんだって!」
「おめでとう」
「反応が薄い!」
「私は読まないから」
「読めば絶対に面白いのに」
「前にも同じことを言われた気がする」
「前の作品も面白かったでしょ?」
「主人公が三章かけて薬草を探していた話?」
「そう! あれ、すごくよかったじゃない!」
「薬草を探すだけで三章よ?」
エミリーは呆れたように首を振った。
「普通、そんなに時間をかける?」
「かけるよ! だって、薬草がどこに生えていて、どんな環境を好んで、どうやって採取して、どう保存するかまで描いてあったんだよ。しかも、主人公が薬草を探している間に、村の人たちが何を食べているのかとか、どうやって冬を越すのかとか、そういうことまで分かるんだから!」
「……ミサ」
「何?」
「あなた、本当に楽しそうね」
ミサは口を閉じた。
それから、少し照れくさそうに笑った。
「まあ、好きだからね」
好きなものについて話していると、時間を忘れる。
それは、ミサにとって大切なことだった。
将来、何になりたいのか。
どんな仕事をしたいのか。
そう聞かれると、まだ明確な答えは出せない。
ただ、知らないことを知りたい。
見たことのないものを見たい。
誰も気に留めない疑問を、自分なりに考えてみたい。
それだけは、はっきりしていた。
「ところでさ」
エミリーがサンドイッチの包み紙を畳みながら言った。
「週末、うちに来ない? 新しい映画を借りたんだけど」
「どんな映画?」
「冒険もの。古代遺跡を探検するやつ」
「魔法は?」
「知らない」
「ドラゴンは?」
「知らないってば」
「異世界?」
「たぶん違う」
「じゃあ、考えておく」
「来る気満々じゃない!」
二人は声を上げて笑った。
そのとき、ミサのスマートフォンが震えた。
学校の連絡アプリから通知が届いていた。
内容は、翌日の授業に関する事務的なお知らせだった。
ミサは画面を確認し、何気なく通知を閉じた。
その直後。
画面が、一瞬だけ乱れた。
「……ん?」
ほんのわずかな違和感だった。
文字が崩れたように見えたのだ。
画面の上部に、見慣れない記号が一つ浮かんでいた。
しかし、瞬きをしたときには、もう消えていた。
「どうしたの?」
エミリーが尋ねた。
「いや、今、画面が変になった気がして」
「壊れた?」
「分かんない。普通に動いてるけど」
ミサはスマートフォンを操作した。
メールも開ける。
ブラウザも使える。
電子書籍のアプリも問題ない。
何も異常はなかった。
「気のせいかな」
「最近、スマホの調子が悪いんじゃない?」
「そうかも」
ミサはスマートフォンを鞄にしまった。
このときは、本当にそれだけのことだと思っていた。
機械の一時的な不具合。
よくあることだ。
気にするほどのことではない。
午後の授業が始まると、ミサはその出来事をすっかり忘れてしまった。
*
放課後。
最後の授業が終わると、教室は一気に騒がしくなった。
部活動へ向かう生徒。
図書館へ行く生徒。
友人と寄り道の相談をする生徒。
ミサは机の上に広げたノートを片づけながら、今日の宿題を確認していた。
数学の問題が数問。
歴史の短いレポート。
化学の復習。
それから、英語の読書課題。
「……思ったより多い」
ミサはため息をついた。
帰宅したら、まず宿題を終わらせよう。
そのあとで新刊を予約する。
それから、少しだけ読む。
少しだけ。
少なくとも、今日は午前零時を過ぎないようにしたい。
「ミサ、帰る?」
エミリーが鞄を肩に掛けた。
「うん。途中まで一緒に行こう」
二人は校舎を出た。
西の空は、夕日に染まり始めていた。
校門の前では、生徒たちがそれぞれの方向へ歩いていく。
いつもと変わらない光景。
いつもと変わらない帰り道。
ミサは歩きながら、明日の歴史の授業について考えていた。
文明とは何か。
魔法がある世界の文明は、何で測るべきなのか。
考えれば考えるほど、答えが見つからない。
いや、そもそも、魔法というものをどう定義するのか。
人間の理解できない現象を、すべて魔法と呼ぶのだろうか。
それとも、特定の規則に従って発生する現象だけを魔法と呼ぶのだろうか。
もし後者なら、その規則を理解すれば、魔法も科学の一部として扱えるのではないか。
「……あー、だめだ」
ミサは頭を振った。
考え始めると止まらない。
「何が?」
エミリーが尋ねた。
「何でもない。ちょっと考え事」
「また小説?」
「うん」
「本当に好きだね」
「うん」
ミサは笑った。
夕方の風が、彼女の髪を揺らした。
バス停でエミリーと別れ、ミサは一人で歩き始めた。
家までは、あと十分ほど。
途中にあるベーカリーで、母親に頼まれたパンを買わなければならない。
それからスーパーに寄って、牛乳と卵を買う。
ごく普通の用事だった。
ミサは鞄からスマートフォンを取り出し、時刻を確認した。
午後四時三十八分。
画面は正常だった。
バッテリー残量は六十八パーセント。
メッセージが一件届いている。
母親からだった。
『帰りに牛乳と卵をお願いね。夕食は七時よ』
ミサは短く返信した。
『了解!』
そして、スマートフォンをポケットにしまおうとした。
その瞬間。
画面が、白く光った。
「え?」
ミサは足を止めた。
今度は見間違いではなかった。
画面全体が、ほんの一瞬、真っ白になったのだ。
すぐに元の表示へ戻った。
通知はない。
アプリも開いていない。
ただ、画面の中央に、小さな黒い点が残っていた。
ミサは指で触れた。
点は消えた。
「……何なの?」
スマートフォンを再起動しようかと思ったが、操作する前に、画面はいつもどおりの表示へ戻っていた。
特に問題はない。
少なくとも、そう見えた。
ミサは少しだけ眉をひそめ、それから歩き始めた。
今日はいろいろ考えすぎたのかもしれない。
歴史の授業。
小説の新刊。
明日の宿題。
疲れているときには、変なことが気になるものだ。
そう自分に言い聞かせた。
けれど、歩きながら、彼女は一つのことを考えていた。
画面が白くなる直前。
黒い点が現れる前。
ほんの一瞬だけ、見慣れない文字が表示されていたような気がする。
英語ではなかった。
日本語でもなかった。
そもそも、文字なのかどうかさえ分からなかった。
なのに。
なぜか、その文字を見た瞬間、自分の中に奇妙な感覚が生まれたのだ。
まるで。
意味を知っているのに、思い出せない言葉を見たような。
あるいは。
ずっと知っていたはずの何かを、突然、忘れてしまったような。
「……変なの」
ミサは小さく笑った。
そして、何事もなかったかのように歩き続けた。
*
午後五時二分。
ミサはベーカリーを出た。
紙袋の中には、チョコレートクロワッサンが二つ。
スーパーの袋には、牛乳と卵。
空は夕焼けに染まり、住宅街には夕食の支度をする家々の明かりが灯り始めていた。
どこかの家から、犬の鳴き声が聞こえる。
通りの向こうでは、子供たちが自転車に乗って遊んでいた。
遠くを車が通り過ぎる。
何も変わらない。
何もおかしくない。
ミサは家に帰ったら、母親に今日の出来事を話そうと思った。
歴史の授業のこと。
エミリーに勧められた映画のこと。
それから、スマートフォンの調子が少し悪いこと。
夕食を食べて、宿題をして、新刊を予約する。
いつもどおりの夜。
いつもどおりの明日。
そのはずだった。
ミサが住宅街の角を曲がったとき。
風が止まった。
最初は、気のせいだと思った。
街路樹の葉が揺れていない。
頬に当たっていた空気の流れが、ぴたりと消えている。
ミサは足を止めた。
道路の向こうで遊んでいた子供たちが、何かを話している。
車も走っている。
人も歩いている。
世界は、いつもどおり動いている。
それなのに。
周囲の音が、妙に遠く感じられた。
「……何?」
ミサは顔を上げた。
空には、夕焼け色の雲が広がっている。
その雲の一部が、不自然なほどまっすぐに切れていた。
まるで、空の一部分だけを、何かで切り取ったように。
ミサは目を細めた。
雲が動く。
夕日の光が揺れる。
そして、その隙間に。
何かが見えた。
青い光。
細い線のようなものが、空の向こう側に浮かんでいた。
ミサは息を止めた。
線は一本ではなかった。
二本。
三本。
それらがゆっくりと交差し、見たこともない模様を形作っていく。
文字のようにも見えた。
地図のようにも見えた。
しかし、どちらとも違う。
ミサは、なぜか目を離せなかった。
胸の奥が、ざわつく。
恐怖ではない。
興奮でもない。
もっと曖昧で、もっと深いところにある感覚だった。
ずっと昔から知っている場所を、突然、目の前に見せられたような。
初めて聞くはずの旋律を、懐かしいと感じるような。
そんな、説明のつかない感覚。
「……何なんだろう、あれ」
ミサがつぶやいた、そのとき。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
一度。
そして、もう一度。
ミサは慌てて取り出した。
画面は真っ暗だった。
電源ボタンを押しても反応しない。
しかし、手の中で、確かに震えている。
さらにもう一度。
今度は、長く。
「ちょっと、嘘でしょ……」
ミサはスマートフォンを両手で持った。
画面の中央に、白い点が現れた。
小さな点。
それが、ゆっくりと広がっていく。
やがて、点は一本の線になった。
線は枝分かれし、複雑な形を描き始める。
見たことのない記号が、画面いっぱいに並んでいった。
ミサには、そのどれも読むことができなかった。
それなのに。
画面に浮かぶ記号を見つめていると、頭の中に、意味だけがぼんやりと浮かび上がってくる。
何かを確認している。
何かを探している。
何かを、照合している。
そんな気がした。
そして、記号の並びが一瞬だけ止まった。
画面の中央に、短い文字列が現れる。
ミサは息をのんだ。
その文字の形は分からない。
発音も分からない。
それなのに、そこに書かれている意味だけは、なぜか理解できた。
――まだ、違う。
「……え?」
ミサは思わず声を上げた。
その瞬間、画面が再び真っ白になった。
同時に、空に浮かんでいた青い線が、音もなく消えた。
風が戻る。
街路樹の葉が揺れる。
車の音が聞こえる。
遠くで、子供たちが笑っている。
世界は、何事もなかったかのように動き続けていた。
ミサは、その場に立ち尽くした。
手の中のスマートフォンは、再び真っ暗になっている。
どれだけボタンを押しても、反応しなかった。
夕焼けは、ゆっくりと色を失っていく。
ミサは空を見上げた。
先ほどの青い線は、もうどこにもなかった。
雲も、太陽も、いつもどおりだ。
何も変わっていない。
それなのに。
彼女は、自分の中に、何かが残っていることに気づいた。
あの文字。
あの意味。
――まだ、違う。
誰が。
何と比べて。
何が違うというのだろう。
「……気のせい、だよね」
そう言った声は、自分でも驚くほど小さかった。
ミサはスマートフォンをポケットにしまった。
そして、家へ向かって歩き始めた。
夕食の時間が近い。
宿題も残っている。
新刊の予約だって、まだ済ませていない。
今は、それを考えるべきだ。
そう自分に言い聞かせながら。
彼女は、いつもの道を歩いていった。
この日の夜、ミサは夢を見なかった。
少なくとも、本人はそう思っていた。
ただ、午前零時を少し過ぎたころ。
枕元に置かれたスマートフォンの画面が、誰にも触れられていないのに、静かに点灯した。
画面には、見慣れない記号が並んでいた。
数秒後、その記号が一つずつ消えていく。
最後に、画面の中央へ、短い一文が表示された。
《対象との接続を確認》
その下に、もう一文。
《翻訳処理を再開します》
そして。
《帰還条件:未達成》
スマートフォンは、再び暗闇に沈んだ。
部屋の中は静かだった。
窓の外では、夜の風が木々を揺らしていた。
ミサは、何も知らずに眠っていた。
明日も学校がある。
宿題を提出しなければならない。
エミリーとの約束もある。
世界は、何も変わっていない。
まだ。




