第30話
午後二時を過ぎた頃、ミサは王宮の部屋に戻っていた。
扉を開ける前に、彼女は一度止まった。廊下の奥から届く足音と、遠くで鳴る鐘の音。王宮白銀城の午後は、いつもこの程度の騒がしさだった。衛兵の交代。給仕の足音。誰かの笑い声。それらが重なり合って、この世界が「動いている」ことを証明している。
ミサは深呼吸を一度して、扉を押した。
エレノアが既に机に座っている。羊皮紙——ミサのメモ——を前に、長い沈黙を続けている。金髪の髪が、窓から差し込む午後の光を受けて淡く光っていた。表情は変わらない。けれど、指先が羊皮紙の縁をなぞっている。一度。二度。三度。
ミサは向かいに座った。椅子が床を擦る音が、部屋に落ちた。
二人の間で、沈黙が続いた。
窓の外では、雷鳴の塔が青白い光を放っている。規則正しく、明滅している。心拍のように。一拍。二拍。三拍。四拍。繰り返されている。その光が、壁に薄い影を揺らしていた。
ミサは鞄から羊皮紙の切れ端を取り出した。親指で凹みをつけた三行を見せる。
「殿下」
エレノアは顔を上げた。
「これは、不便な世界じゃありません」
声は落ち着いている。けれど、昨日までの「多分」「気がする」がない。今日、ミサはその二つの言葉を捨てた。市場で老人の唇を見たとき。衛兵の「神の意です」を聞いたとき。その二つが不要になった。
エレノアは何も言わなかった。羊皮紙の上で指を止めたまま、ミサを見ていた。
「魔法があるのに馬車が走っている。加護があるのに老人が三時間待っている。治癒があるのにポーションが『補助的』だ」ミサは続けた。「これらは全部、本来ならそうじゃないはずのことが、そうになっています」
一拍の沈黙。塔の光が壁を揺らした。
「何か、言葉の意味そのものが——」
ミサは言葉を切った。
エレノアが、顔を上げた。
「……何と違うのか」
問いだった。けれど、怒りではない。探しているのだ。答えを、探している。
ミサは指先で羊皮紙の縁をなぞりながら、言葉を探した。
「『治す』って、本来、傷がなくなるって意味でしょ? 異世界じゃなくても、現実でも、『治す』は、傷が消えることだ。痛みが引くこと。体に戻る」ミサの声が、少しずつ硬くなる。「でもここでは、傷が治るまで時間がかかる。三日。二週間。感染すれば別の薬草。つまり、『治す』の意味が、本来と違う」
塔の光が、一拍だけ暗くなった。また明いた。
「あるいは」ミサは続けた。「この世界では『治す』がそもそもそう定義されている。最初から、時間がかかるものと決まっている。どちらかだと、思います」
思います。多分ではない。気がするでもない。思います。まだ確証はない。けれど、昨日までの「たぶん一致してる。多分」からは、もう戻れない。
エレノアは長く目を閉じた。
窓の外では、塔の青白い光が明滅している。規則正しく。心拍のように。ミサも同時に窓を見た。一拍。二拍。三拍——
——四拍目が、少し遅い。
半拍だけ。けれど、確かに。
ミサの指先が、羊皮紙の上で震えた。
「殿下」ミサは窓を向けたまま言った。「あの塔」
エレノアは目を閉じたまま、うなずいた。
「雷鳴の塔。魔力の供給源だと聞いていますけど……あの光、いつも同じ間隔で点滅していますか?」
沈黙が、少し長くなった。エレノアの指先が、再び羊皮紙の縁をなぞり始めた。今度はゆっくりと。一度だけ。止まった。
「……見慣れてしまった」エレノアの声は低かった。「毎日のように見ているから」
「毎日のように見ていて、四拍目が半拍遅いことに気づかないんですか?」
エレノアは目を閉じたまま、言った。
「ミサ」
声は低い。普段の柔らかさがない。
「我々は、そう教えられる」
一拍。
「それが世界の摂理だと」
ミサは息を止めた。
塔の光が、壁に影を揺らした。一拍。二拍。三拍——遅れ。四拍。五拍。六拍——遅れ。
半拍。半拍。繰り返されている。規則的な不規則さ。心拍のように見えて、心拍ではないもの。
エレノアは目を閉じたまま続けた。
「雷鳴の塔が何をしているのか、我々には分からない。ただ、光っている。街に魔力を届けている。それが事実であり、それ以上を問うことは——」
「問いません」ミサは言った。「でも、見えます」
エレノアは目を閉じたまま、うなずいた。
「だが……」
彼女は答えなかった。「だが」の先に、何かがあった。けれど、言葉にはならなかった。代わりに、彼女は窓の外を指した。
雷鳴の塔。青白い光が、規則正しく明滅している。心拍のように。止まる気配はない。
ミサも見た。一拍。二拍。三拍——遅れ。四拍。五拍。六拍——遅れ。
半拍のずれが、壁に落ちる影の形を変えている。気づいていなければ、ただの明滅だ。見慣れた光だ。世界の摂理だ。
けれど、ミサは見た。
「殿下」ミサは羊皮紙を机に置いた。「この三行、凹みをつけてあります。指で押した跡です」
エレノアが、ゆっくりと目を開けた。
「もし、この世界が"そういうもの"として動いているなら——」ミサの声は静かだった。「誰かが、そう定義したはずです。いつか。どこかで。」
塔の光が、一拍だけ暗くなった。また明いた。
エレノアは何も言わなかった。けれど、羊皮紙の上で止まっていた指が、ゆっくりと三つの凹みをなぞった。一度。二度。
「……調べてくれるのか」
問いでも命令でもない。確認だった。ミサが、本当に動くかどうかを。
ミサはうなずいた。
「はい」
一拍の沈黙。塔の光が壁を揺らした。
エレノアは羊皮紙を自分の手元へ引き寄せた。三つの凹みをもう一度指で確かめると、机の端にそっと置いた。
「明日、雷鳴の塔の管理記録を取りに行きます」
声は、さっきまでの柔らかさを少し失っていた。けれど、迷いはない。
ミサはその言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ軽くなった。
塔の光が、一拍。二拍。三拍——遅れ。四拍。五拍。六拍——遅れ。
半拍のずれは、止まらなかった。
窓の外で、午後の光がゆっくりと傾き始めている。二人の間には、羊皮紙の切れ端と、塔の影だけが残った。
ミサは指先の震えを、もう一度だけ確かめた。
まだ、確証はない。けれど、半拍の遅れは、確かにそこにある。世界の摂理だと教えられるものが、半拍ずれている。
それだけで、十分だった。
塔の光が、規則正しく——いや、半拍ずれて——明滅を続けた。




