言葉のズレ
# EP.29 言葉のズレ
午後の光が、広間の床を斜めに裂いていた。
窓から差し込む陽射しが、机の上の羊皮紙を淡い金色に染めている。ミサは親指でその縁をなぞっていた。一度。二度。三度。凹みをつけた三行の文字——市場で老人が三時間待っていたこと、ポーションが「補助的」だと薬師が言ったこと、衛兵が「神の意です」と答えたこと——を、指先で確認するように繰り返している。
向かい側で、エレノアが座っている。金髪の髪が午後の光を受けて淡く輝き、表情は変わらない。けれど、指先が羊皮紙の縁をなぞっている。一度。二度。三度。
二人とも、同じことをしていた。
「殿下」
ミサの声が、広間の静けさを割った。
エレノアは顔を上げる。視線が合わり、一拍の間がある。それから、彼女は口を開いた。
「……あなたが、また来たのですね」
「うん。今日も、気になることがあったから」
ミサは椅子を少し前にずらした。靴底が石畳を擦る音が、小さく響く。窓の外では、遠くで鐘が鳴っている。三時だ。午後二時を過ぎたあたりから、この広間には二人しかいない。執事は下げられた。エレノアがそう命じたのだと、ミサは知っている。
「殿下。一つだけ、聞いてもいい?」
「どうぞ」
エレノアの口調は柔らかい。公の場ではない。格式はない。けれど、王女としての距離は消えていない。その間合いを、ミサはまだ測りきれていない。
「この世界は、不便でないはずではありませんか?」
ミサは羊皮紙を見せなかった。見せる必要がなかった。エレノアも、もう読んでいる。
「魔法があるのに馬車が走っている。加護があるのに老人が三時間待っている。治癒があるのにポーションが『補助的』だ」ミサの声が、少しずつ硬くなる。「これらは全部、本来ならそうじゃないはずのことが、そうになっています」
エレノアは何も言わなかった。羊皮紙の上で指を止めたまま、ミサを見ていた。その瞳に、怒りはない。探しているのだ。答えを、探している。
「殿下は……どう思います?」
「我々は、教えられてきたものです」
一拍。エレノアの声が、ほんの少しだけ低くなった。
「それが世界の摂理だと」
ミサは息を止めた。
窓の外では、塔の青白い光が明滅している。規則正しく。心拍のように。一拍。二拍。三拍。四拍。五拍。止まる気配はない。雷鳴の塔。この王都の中心に立つ、誰にも中身が説明できない塔。ミサは転移してから一度も、その内部を見たことがない。
「でも」ミサは続けた。「『治す』って、本来、傷がなくなるって意味でしょ? 異世界じゃなくても——私のいた場所でも、『治す』は、傷が消えることだ。痛みが引くこと。体に戻る」
彼女は指先で羊皮紙の縁をなぞりながら、言葉を探した。
「でもここでは、傷が治るまで時間がかかる。三日。二週間。感染すれば別の薬草。つまり、『治す』の意味が、本来と違う」
一拍の沈黙。
「あるいは」ミサは続けた。「この世界では『治す』がそもそもそう定義されている。最初から、時間がかかるものと決まっている。どちらかだと……思います」
*と思います。* 多分ではない。気がするでもない。まだ確証はない。けれど、昨日までの「たぶん一致してる」「多分」からは、もう戻れない。ミサはその二つの言葉を、市場で老人の唇を見たときに捨てた。衛兵の「神の意です」を聞いたときにもう一度確認した。
エレノアは長く目を閉じた。
「……言葉の意味が、どこかにズレている気がします」
ミサの声が、少しだけ震えた。*Holy shit.* 自分でも驚いている。こんなことを王女に言える日が来るとは、一週間前には思わなかった。異世界に転移して三日目、彼女はただ「面白い」と呟いていただけだった。魔法があるのに不便だなんて、まあ、設定なんだろうと。
けれど今日ではない。今日、ミサはその「まあ」を、捨てることにした。
エレノアは目を閉じたまま、言った。
「ミサ」
声は低い。普段の柔らかさがない。王女の言葉。けれど、命令でもない。
「我々は、そう教えられる。それが世界の摂理だと——」
「はい」
「だが……」
そこで止まった。「だが」の先に、何かがあった。けれど、言葉にはならなかった。エレノアは目を閉じたまま、唇を一度だけ動かした。何かを飲み込んだ。あるいは、吐き出した。
窓の外で、塔の光が明滅している。一拍。二拍。三拍——
——四拍目が、少し遅い。
半拍だけ。けれど、確かに。
ミサの指先が、羊皮紙の上で震えた。*Wait.* 今のは、気のせい? いや、違う。三拍目の光が消えてから、四拍目の光が戻るまでに、いつものより少し——ほんの少し——時間がかかった。心拍のようなリズムに、一拍のずれが入った。
エレノアは目を閉じたまま、言った。
「……見て」
ミサが顔を上げる。エレノアが窓の外を指した。雷鳴の塔。青白い光が、規則正しく明滅している。心拍のように。けれど——
一拍。二拍。三拍——遅れ。四拍。五拍。六拍——遅れ。
半拍ずつ。確実に。積み重なっている。
ミサは息を吸い込んだ。吐き出さなかった。胸の奥で、何かが締めつけられる感覚がある。言葉にできない。*I can't——* 言葉にできない何かが、二人の間に広がっていた。エレノアが指した先には、ただ塔がある。光がある。明滅している。
けれど、その明滅が「正しい」のかどうかを、この世界で説明できる人は、おそらくいない。
「……殿下」ミサの声が、小さくなった。「もし、言葉の意味がズレているなら——」
「では、何かがズレている」
エレノアは目を閉じたまま、答えた。肯定でも否定でもない。けれど、*何か*を認めた。王女が、自分の教養の根幹に触れたときに出す声だった。
塔の光が、一拍。二拍。三拍——遅れ。四拍。
広間には、二人の呼吸音と、遠くの鐘の音だけが残っていた。
ミサは羊皮紙を見つめた。親指で凹みをつけた三行の文字。市場。老人。衛兵。「神の意です」。その言葉が、今、少し違って聞こえる。*God's will.* 神の意思。けれど、本当に「意思」なのか? 誰かがそうと決めたのか? それとも——
塔の光が、また一拍遅れて明滅した。
エレノアは目を閉じたまま、何も言わなかった。ミサも、何も言わなかった。窓の外では、午後の光がゆっくりと斜めになっていく。羊皮紙の上で、二人の影が重なっているのに、誰かがそれを直す気配はない。
言葉にできない何かが、この広間を埋めていた。
塔は、明滅を止めるつもりがない。




