世界の不整合
# EP.28 世界の不整合
午後三時を少し回った頃、王都セレスティアの南門市場は、まだ人の気配で溢れていた。
だが、その「溢れ」の中に、一つだけ異質な静まりがあった。
治癒院の入口に設けられた簡易な待合席——木製の長椅子が二脚、並べられているだけだ——の前に、一人の老人が座っていた。白髪の頭が風に揺れる。膝の上には、布で包まれた何かが置かれている。布の端から、乾いた草の匂いがした。薬草だろう。自分で摘んだものかもしれない。あるいは、誰かに「これが効く」と言われて持ってきたものかもしれない。
三時間だ。
ミサは、その老人の隣に立っていた衛兵に聞いた。
「いつからお並びですか」
「……未明からです」
「三時間」
「四時間です」
衛兵は訂正した。けれど、その声には「それ以上は分かりません」という温度が混じっていた。神の意です、とでも言いたそうな顔だった。いや、実際、先ほど別の衛兵がそう言った。ミサが「なぜ待たされているのか」と聞くと、「加護の順番ですから」と答えた。順番。順番がある。三時間——四時間の待機に、順番がある。
老人は動かなかった。布を握る指が、時折、少しだけ強くなる。それだけが、彼のすべてだった。
ミサは、その布の上で震える指を見ていた。見ていた、というより、見せられていた。
*
王宮白銀城の書斎へ戻るまでの道は、十五分もかからなかった。
廊下の石畳が、靴底を叩く。窓の外では、王都の屋根が連なり、煙突から白い煙が立ち上っている。どこかの家で、誰かが食事をしている。鍋の音が、遠くで聞こえる。普通の生活だ。この世界の、普通の生活。
書斎の扉は開いていた。
エレノアが既に机に座っている。羊皮紙——ミサのメモ——を前に、長い沈黙を続けている。金髪の髪が、窓から差し込む午後の光を受けて淡く光っている。表情は変わらない。けれど、指先が羊皮紙の縁をなぞっている。一度、二度、三度。四度目で止まったまま、動かない。
ミサは向かいに座った。鞄——この世界では、革の小袋と呼ぶらしい——から羊皮紙の切れ端を取り出す。親指で凹みをつけた三行を見せる。
「殿下」
エレノアは顔を上げた。
「これは、不便な世界じゃありません」
声は落ち着いている。けれど、昨日までの「多分」「気がする」がない。今日、ミサはその二つの言葉を捨てた。市場で老人の唇を見たとき——薄い、乾いた、それでも何かを伝えようとしているような唇——衛兵の「神の意です」を聞いたとき、その二つが不要になった。
「魔法があるのに馬車が走っている。加護があるのに老人が四時間待っている。治癒があるのにポーションが『補助的』だ」ミサは続けた。「これらは全部、本来ならそうじゃないはずのことが、そうになっています」
エレノアは何も言わなかった。羊皮紙の上で指を止めたまま、ミサを見ていた。その瞳には、怒りも驚きもない。あるのは——確認だ。自分がずっと感じていたものを、誰かが言葉にしようとしている瞬間を確認する、あの視線。
「何か、言葉の意味そのものが——」
ミサは言葉を切った。
エレノアが、顔を上げた。
「……何と違うのか」
問いだった。けれど、怒りではない。探しているのだ。答えを、探している。
*
ミサは指先で羊皮紙の縁をなぞりながら、言葉を探した。
「『治す』って、本来、傷がなくなるって意味でしょ? 異世界じゃなくても——私のいた世界でも、『治す』は、傷が消えることだ。痛みが引くこと。体に戻る」ミサの声が、少しずつ硬くなる。「でもここでは、傷が治るまで時間がかかる。三日。二週間。感染すれば別の薬草。つまり、『治す』の意味が、本来と違う」
一拍の沈黙。
「あるいは」ミサは続けた。「この世界では『治す』がそもそもそう定義されている。最初から、時間がかかるものと決まっている。どちらかだと、思います」
思います。多分ではない。気がするでもない。思います。まだ確証はない。けれど、昨日までの「たぶん一致してる。多分」からは、もう戻れない。
エレノアは、長い間、何も言わなかった。
その沈黙の中で、ミサは窓の外を見た。雷鳴の塔が、王都の北区に立っている。遠くからでも分かる。青白い光が、規則正しく明滅している。心拍のように。一拍ごとに、灯りが消え、また灯る。止まる気配はない。
一拍。二拍。三拍——
——四拍目が、少し遅い。
半拍だけ。けれど、確かに。
ミサの指先が、羊皮紙の上で震えた。
「殿下」ミサは窓の外を向けた。「雷鳴の塔、見えますか」
エレノアは目を閉じたまま、答えた。
「見えるわ」
「……四拍ごとに、半拍遅れています」
今度は沈黙が長かった。エレノアの指先が、羊皮紙の上で完全に静止している。動かない。息を吸う音すら、ほとんど聞こえない。
ミサは窓の外を見た。一拍。二拍。三拍——遅れ。四拍。五拍。六拍——遅れ。七拍。八拍。九拍——
半拍。毎回、四拍ごとに。例外なく。心拍の規則の中に、規則正しくない規則がある。
「……殿下」ミサの声が、少しだけ小さくなった。「これは、故障ですか」
エレノアは目を閉じたまま、言った。
「分からない」
その三文字に、重さがあった。分からない、というより、分かっていて言えない何かを、分からないで返している。
*
ミサは再び羊皮紙を見た。三行のメモ。親指で凹みをつけた文字。
一行目:治癒院。待機四時間。加護の「順番」。
二行目:ポーション。「補助的」。即効性なし。
三行目:雷鳴の塔。四拍ごとに半拍遅延。
三つは、無関係に見える。医療と薬品と塔。けれど、ミサの頭の中では、三つの文字が同じ方向を向いていた。
「殿下」ミサは続けた。「ポーションの調合所に行きましたよね。先週」
エレノアは目を開けた。うなずく。
「職人が言ってました。『この薬草の配合では、本来の効果の三分の一しか出ない』と」ミサは言った。「『本来』って、何の意味ですか」
エレノアは、少しだけ唇を動かした。何かを飲み込むように。
「……配合比が、古来からそう定められているという説明だったわ」
「古来から」
「古来から」
ミサはうなずいた。古来から。つまり、いつまでもそうであることが前提としてある。なぜその配合比なのか、誰が決めたのか、何のために三分の一に抑えているのか——それらの問いが、この世界では存在しない。存在しないのではなく、存在する余地がない。「古来から」の四文字で、質問は封じられる。
「私のいた世界ではね」ミサの声が、少しだけ上がった。「薬が効かないと分かったら、『なぜ効かないのか』を調べる。配合比を変える。別の成分を試す。原因を探す。でもここでは——」
「古来からそうなのだ、で終わるわ」
エレノアが言った。声は低い。普段の柔らかさがない。
ミサは息を止めた。
窓の外では、塔の光が明滅している。一拍。二拍。三拍——遅れ。四拍。五拍。六拍——遅れ。規則正しく不規則な、そのリズムだけが、書斎に響いている。
「殿下」ミサは言った。「魔法があるのに馬車が走っている。これは、魔法が弱いからですか」
「……違うわ」
「じゃあ、なぜ馬車なのか」
エレノアは答えない。代わりに、彼女は窓の外を指した。雷鳴の塔。青白い光。心拍のように明滅する、そのリズム。
「ミサ」エレノアの声が、さらに低くなった。「我々は、そう教えられる」
一拍。
「それが世界の摂理だと」
ミサは息を止めた。
「だが……」
エレノアは答えなかった。「だが」の先に、何かがあった。けれど、言葉にはならなかった。代わりに、彼女は窓の外を指したまま、指先が微かに震えていることに気づいた。エレノアの指が、震えている。普段、あの王女が震えるのは、ほとんどない。
ミサも見た。一拍。二拍。三拍——遅れ。四拍。五拍。六拍——遅れ。七拍。八拍。九拍——遅れ。
半拍。毎回。例外なく。
「世界の摂理」。そう教えられる。けれど、その摂理の中に、半拍のずれがある。規則の中に不規則がある。心拍の中に、一拍の欠落がある。
ミサは羊皮紙を握りしめた。親指で凹みをつけた三行が、革の小袋の中で擦れる音がする。
「殿下」ミサの声が、静かになった。「もし——その法則自体に、傷があるなら」
エレノアは何も言わなかった。
窓の外では、雷鳴の塔の光が、まだ明滅している。一拍。二拍。三拍——遅れ。四拍。五拍。六拍——遅れ。止まる気配はない。けれど、そのリズムの中に、誰にも聞こえない半拍の沈黙が、確かに存在していた。
ミサは、その光を見ていた。
見ていると、なぜか、市場で老人の膝の上にあった布包みが浮かんだ。乾いた草の匂い。震える指。四時間の待機。加護の「順番」。
全部、繋がっている。繋がっているはずだ。けれど、まだ言葉にはならない。言葉にすると、「世界の摂理」を疑うことになる。そして、その摂理は——エレノアが「だが」と切り捨てたように——この世界の人々にとって、唯一の支えだ。
ミサは羊皮紙を見下ろした。三行のメモ。まだ足りない。もっと必要だ。けれど、この三つだけは、もう消せない。凹みが深すぎる。親指の跡が、羊皮紙の繊維に食い込んでいる。
窓の外で、塔の光が四拍目を刻んだ。
半拍遅れて、灯った。




