言葉の歪みと塔の光
# EP.28 言葉の歪みと塔の光
午後二時を過ぎた頃、王宮白銀城の客室には、午後の光が斜めに差し込んでいた。
窓枠の磨りガラスを通して入る光は、羊皮紙の表面に淡い金色の帯を落としている。ミサ・カーターはその帯の上で、指先を動かしていた。親指の腹で、三行分の文字に凹みをつける。インクではなかった。押して、刻んで、消えないようにする。この世界にはペンがないわけではないが、彼女には自分の手で形を残したい衝動があった。
「殿下」
向かいの席から声がした。エレノア・アルヴェインが、机の上の羊皮紙——ミサが今朝書き記したメモの写し——を前に、長い沈黙を保っていた。金髪の髪が窓の光を受けて淡く浮き、表情は変わらない。けれど指先が、羊皮紙の縁をなぞっている。一度、二度、三度。
ミサは向かいに座ったまま、鞄から羊皮紙の切れ端を取り出した。親指で凹みをつけた三行を見せる。
「これ、見て」
エレノアは顔を上げた。
「これは、不便な世界じゃありません」
声は落ち着いている。けれど、昨日までの「多分」「気がする」がない。今朝、市場で老人の唇を見たとき。衛兵が「神の意です」と頭を下げたとき。その二つの瞬間で、ミサはその二つの言葉を捨てた。
「魔法があるのに馬車が走っている。加護があるのに老人が三時間待っている」
ミサは続けた。羊皮紙の上の凹みを指先でなぞりながら。
「治癒があるのにポーションが『補助的』だ。薬師さんがそう言っていた。傷を塞ぐのを助けるだけで、本当の治しは体任せだって」
エレノアは何も言わなかった。羊皮紙の上で指を止めたまま、ミサを見ていた。その視線には怒りがない。探しているのだ。何かを、探している。
「殿下は、どう思いますか」ミサが尋ねた。「全部、……おかしくないですか?」
一拍。
エレノアは目を閉じた。睫毛が、羊皮紙の表面に細い影を落としている。
「我々は、そう教えられる」
声は低い。普段の柔らかさがない。王女として、宮廷で育った人間として、この言葉以外に持っていないのだ。ミサはその事実を、今、初めて認識した。
「それが世界の摂理だと」
ミサは息を止めた。
世界の摂理。
その言葉が、妙に空っぽに聞こえる。何かの代わりになっている。本当の答えの代わり。あるいは——
「『治す』って」ミサの声が、わずかに硬くなる。「本来、傷がなくなるって意味でしょ? 現実でも、『治す』は、傷が消えること。痛みが引くこと。体に戻る」
指先で羊皮紙の縁をなぞる。
「でもここでは、傷が治るまで時間がかかる。三日。二週間。感染すれば別の薬草。つまり——『治す』の意味が、本来と違う」
沈黙が落ちた。
窓の外では、雷鳴の塔の青白い光が明滅している。規則正しく。心拍のように。ミサも同時に窓を見た。一拍。二拍。三拍——
——四拍目が、少し遅い。
半拍だけ。けれど、確かに。
ミサの指先が、羊皮紙の上で震えた。
「……殿下」
名前で呼んだ。殿下ではなく。エレノアは目を閉じたまま、言った。
「だが……」
「だが」の先に、何かがあった。言葉にはならなかった。代わりに、彼女は窓の外を指した。細い人差し指が、光の帯の中を滑る。
雷鳴の塔。青白い光が、規則正しく明滅している。心拍のように。止まる気配はない。
ミサも見た。一拍。二拍。三拍——遅れ。四拍。五拍。六拍——遅れ。
半拍ずつではない。もっと細かい。呼吸の間隔が、一拍だけずれるようなもの。けれど、そこにある。
「……塔の光」ミサが呟いた。「いつも、こうだった?」
エレノアは答えた。今度は声に柔らかさが戻っている。けれど確信がない。
「そう……だよね。ずっと。王宮から見える景色の中で、一番変わらないものだったから」
一番変わらないもの。
ミサはその言葉の裏にあるものを、まだ言葉にできなかった。変わらないはずのものが、今、少しだけ変わっている。あるいは——変わっていたことに、今、気づいた。
塔の光が、一拍。二拍。三拍。四拍。
規則正しく戻った。
まるで、先ほどの遅れがなかったかのように。心拍のように。止まる気配もなく。
エレノアは窓から目を離し、羊皮紙の上のミサの指を見た。震えは止まっている。けれど、爪の先が白い。
「ミサ」
今度は名前で呼ばれた。
「あなたは、この世界に来て、何日になる?」
「……十一日です」
エレノアはうなずいた。羊皮紙を両手で押さえ、折り目を整える。
「十一日で、世界の摂理に疑問を持つ。それは——」
言葉を探した。あるいは、言葉が追いついてこなかった。
「——面白い」
そう言って、彼女は初めて、微笑んだ。王女としての微笑みではない。隣の席の人間として。答えを知らない人間として。
ミサは羊皮紙の切れ端を折りたたみ、鞄の中に戻した。凹みの三行が、指先にまだ残っている。魔法があるのに馬車が走っている。加護があるのに老人が待つ。治すの意味が違う。
塔の光が、一拍。二拍。三拍。四拍。
規則正しく。心拍のように。
ミサは窓の外を見つめたまま、思った。
*この世界は、魔法でできているのではない。言葉でできている。*
まだ確証はない。十一日では、足りない。けれど、指先の震えが嘘をついていないのは、知っている。
エレノアが立ち上がり、窓枠に手をかけた。午後の光が、彼女の輪郭を淡く縁取っている。
「明日、塔の近くまで行けるか、聞いておく」
背を向けたまま、言った。
「……殿下?」
「世界の摂理を、確認したいだけだ」
エレノアは振り返った。表情はいつもの王女に戻っている。けれど、目元だけが少し違う。探している。答えを、探している。
ミサはうなずいた。そして、羊皮紙の切れ端をもう一度取り出し、三行目の下に、第四行目を押した。
*塔の光、半拍遅れ。午後二時十七分。*
凹みが、羊皮紙に消えないように刻まれる。
窓の外では、雷鳴の塔の青白い光が、規則正しく明滅している。心拍のように。止まる気配もなく。
——一拍。二拍。三拍。四拍。
変わらない。
ミサはそう思った。けれど、指先の爪の先が、まだ白かった。




