異常なタワー
# Chapter 27: 塔の不規則性
午後二時を回った頃、王宮白銀城の書斎には、光が斜めに差し込んでいた。
窓から入る午後の陽射しが、机の上の羊皮紙と墨壺を淡い金色で縁取っている。外の庭では、衛兵の足音が規則正しく鳴っていた。そのリズムと重なるように——いや、重ならないように——遠く王都の北東に立つ雷鳴の塔が、青白い光を明滅させていた。
一拍。二拍。三拍。四拍。
心拍のように、正確で、止まる気配がない。
ミサ・カーターは、その窓の外を三度ほど見てから、視線を戻した。向かいに座る金髪の王女が、羊皮紙の縁を指先でなぞっている。一度、二度、三度。同じ動作を繰り返しながら、何も言わない。
「殿下」
ミサは声を出した。椅子の脚が石畳に触れて、軽い音がする。
エレノア・アルヴェインは顔を上げた。表情は変わらない。けれど、指先が止まった。
「これは、不便な世界じゃありません」
声は落ち着いている。昨日までの「多分」「気がする」がない。ミサは今日、その二つの言葉を捨てた。市場で老人の唇を見たとき。衛兵の「神の意です」を聞いたとき。ギルドの受付で三時間並ばされたとき。そのたびに、「たぶん」が削られていった。
エレノアは何も言わなかった。羊皮紙の上で指を止めたまま、ミサを見ていた。
ミサは鞄から羊皮紙の切れ端を取り出した。親指で凹みをつけた三行を見せる。昨日、市場で聞いた言葉。ギルドで見た光景。治癒院で目にした老人の顔。全部、この小さな羊皮紙に刻んでいる。
「魔法があるのに馬車が走っている」
ミサは最初の行を指差した。
「加護があるのに老人が三時間待っている」
二行目。
「治癒があるのにポーションが『補助的』だ」
三行目。指の腹で凹みをなぞりながら、ミサは続けた。
「これらは全部、本来ならそうじゃないはずのことが、そうになっています」
沈黙。
窓の外では、塔の光がまた明滅した。一拍。二拍。三拍。四拍。正確だ。心拍のように規則正しい。
エレノアが、ゆっくりと口を開いた。
「……何と違うのか」
問いだった。けれど怒りではない。探しているのだ。答えを、探している。王女としての威厳を保ちながら、それでも——ミサはそれを感じた。指先が羊皮紙の縁から離れ、机の上に置かれたまま動かないこと。それが、探しているという証拠だと。
ミサは息を吸った。
「『治す』って、本来、傷がなくなるって意味でしょ」
声が変わる。先ほどまでの落ち着いた調子から、少しずつ硬くなる。指先で羊皮紙の縁をなぞりながら、言葉を探す。
「異世界じゃなくても——いや、私のいた世界でも、『治す』は、傷が消えることだ。痛みが引くこと。体に戻る」一拍。「でもここでは、傷が治るまで時間がかかる。三日。二週間。感染すれば別の薬草。つまり——」
ミサの声が、さらに硬くなった。
「『治す』の意味が、本来と違う」
一拍の沈黙。
塔の光。一拍。二拍。三拍。四拍。
「あるいは」ミサは続けた。「この世界では、『治す』がそもそもそう定義されている。最初から、時間がかかるものと決まっている」
指先が止まった。羊皮紙の上で、親指がわずかに震える。
「どちらかだと、思います」
思います。多分ではない。気がするでもない。思います。まだ確証はない。けれど、昨日までの「たぶん一致してる」「多分」からは、もう戻れない。ミサは知っている。この言葉の重さを。一度「思います」と言った以上、撤回するには別の証拠が必要だ。
エレノアは長く目を閉じた。
金髪の髪が、窓から差し込む光を受けて淡く光っている。睫毛が震える——いや、ただのまばたきかもしれない。けれど、ミサには違った。何かが、その王女の奥で動いている。教条と現実の間で、歯車が噛み合っていない音のようなもの。
「我々は、そう教えられる」
声は低い。普段の柔らかさがない。公の場での格式ある口調に近づいていながら、それでも——ミサに向けた言葉であることが、声色から伝わる。
一拍。
「それが世界の摂理だと」
ミサは息を止めた。
世界的な「当たり前」。魔法があるのに馬車が走る。加護があるのに老人が待つ。治癒があるのにポーションが補助的だ。全部、教えられる。学校で。神殿で。親から子へ。世代を経て、「世界の摂理」として定着する。
ミサのスマートフォンには、そんな表示がない。ここは、そういう世界じゃない。
「殿下」
「……何」
エレノアが目を閉じたまま答えた。
「塔です」
一拍。二拍。三拍——
——四拍目が、少し遅い。
半拍だけ。けれど、確かに。
ミサの指先が、羊皮紙の上で震えた。窓の外を見ている。雷鳴の塔。青白い光が明滅している。規則正しく。心拍のように。けれど——
一拍。二拍。三拍。四拍(遅れ)。五拍。六拍。七拍(遅れ)。八拍。
間隔が、均等ではない。半拍。一々、同じ場所ではなく、違う位置で。けれど確実に、遅れている。
「……見てますか」
エレノアが言った。まだ目を閉じたまま。声は、先ほどより少しだけ震えている。王女としての声を、保とうとしている。けれど、その下にある何かが、漏れ出そうとしている。
ミサは窓から目を離さなかった。一拍。二拍。三拍——遅れ。四拍。五拍。六拍——遅れ。
「心拍じゃありません」
ミサの声が、小さくなった。けれど、硬い。
「心拍は均等です。一秒に一回、あるいは一回半。でもこれは——」
一拍。二拍。三拍。四拍(遅れ)。五拍。六拍。七拍(遅れ)。八拍。九拍。十拍——遅れ。
「規則的ですが、均等でありません。心拍ではない。何か別の——」
言葉が詰まる。別の、何? 機械の計時? 呼吸のリズム? それとも——
エレノアが目を開けた。
金色の瞳が、窓の外を向いている。塔の青白い光が、その瞳に映っている。一拍。二拍。三拍。四拍(遅れ)。
「ミサ」
声は低い。普段の柔らかさがない。けれど、怒りでもない。探しているのだ。先ほどと同じように。けれど、今度は——もっと深い場所から。
「我々は、そう教えられる。それが世界の摂理だと」
もう一度、同じ言葉を繰り返した。けれど、二回目では、最後の「と」の後に、何かが残っている。「だが」が、喉の奥で転がっている。
「だが……」
エレノアは答えなかった。「だが」の先に、何かがあった。けれど、言葉にはならなかった。代わりに、彼女は窓の外を指した。
雷鳴の塔。青白い光が、規則正しく明滅している。心拍のように——いや、心拍ではない。均等でなくとも、止まる気配はない。一拍ごとに、世界が息をしている。あるいは、世界が何かを処理している。
ミサも見た。一拍。二拍。三拍——遅れ。四拍。五拍。六拍——遅れ。七拍。八拍。九拍。十拍——遅れ。
半拍のずれが、積み重なっていく。最初は気づかない。けれど、三回、四回と繰り返されるうちに、その「間」が、別のリズムを形作っている。心拍ではない。呼吸でもない。何か別の——
「……塔は、何をしていますか」
ミサの声が、静かになった。問いではなく、確認だ。答えがなくてもいい。けれど、聞いておきたかった。
エレノアは何も答えないまま、窓の外を見ていた。光が明滅する。一拍。二拍。三拍。四拍(遅れ)。五拍。六拍。七拍(遅れ)。八拍。九拍。十拍——遅れ。
「世界は、その通りです」
長い沈黙のあと、エレノアが言った。声は、先ほどよりずっと静かだ。王女としての声を、完全に手放している。ただの一人の人間として、あるいは——何者かの手から離された存在として。
「世界は、その通りです」
繰り返した。二回目は、問いかけだった。ミサへのではなく、自分自身への。答えを求めているのか、それとも——確認を求めているのか。
ミサは答えたくなかった。けれど、塔の光がまた明滅したので、答えた。
「……はい。世界は、その通りです」
一拍。二拍。三拍。四拍(遅れ)。五拍。六拍。七拍(遅れ)。八拍。九拍。十拍——遅れ。
窓の外では、塔の光が止まらなかった。規則正しく、均等でなく、けれど確かに、明滅を続けている。半拍のずれが、世界のリズムに刻み込まれている。誰かが設計したのか、誰かが壊したのか、あるいは最初からそうだったのか——ミサにはまだ分からない。
分からない。けれど、分からないままではいられない。
ミサは羊皮紙を折りたたみ、鞄に戻した。親指の凹みが、指先に残っている。三行の言葉が、皮膚に刻まれたかのように。
「殿下」
「……はい」
「来週、塔の内側を見たいと思います」
エレノアは目を瞬いた。一拍の間だけ。そして——
「……許可を出すまでに、少し時間がかかります」
王女としての声に戻った。けれど、その奥で、何かが動いていることは、ミサに分かった。指先が机の上で一度、二度と動いている。羊皮紙の縁をなぞるのではなく、机の表面を撫でている。確かめている。自分の手が、まだここに在ることを。
塔の光が明滅した。一拍。二拍。三拍。四拍(遅れ)。五拍。六拍。七拍(遅れ)。八拍。九拍。十拍——遅れ。
均等でなくとも、止まらない。世界は、その通りだ。
ミサは窓から目を離さなかった。光が次の明滅を迎えるまで、ただ見ていた。半拍のずれが、もう一度、確かにそこにあることを確認するために。




