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異世界の言葉が壊れている ~女子高生ミサは、失われた世界の常識を取り戻す~  作者: 伝説の男前


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契約書に書かれた罠

# 第二十三話 契約書に書かれた罠


朝の光が、王宮裏庭の石畳を白く染めていた。


ミサは膝を抱えて座り、羊皮紙の上に筆を走らせていた。三行——『治す』『加護』『魔法』——の下の空欄に、四行目を試写中だった。


『契約=合意(本来)/?(現在)』


「?」の部分が、埋まらない。異世界小説では、契約は仲間を縛るためにあった。パーティーの約束。魔物の分け前。そういうものだと思っていた。けれど、ここに来て三週間。この世界の「当たり前」が、一つずつ本来の意味から離れていくのを見ているうちに、「?」が軽くなかったことに気づいた。


筆先で凹みをつける。消す。またつける。


そのときだった。


裏庭の向こう側——ギルド前広場の方向から——声がした。


「違約金、年収の十倍。ご承知の上で署名されていますので」


平板な声。感情が乗っていない。事実を並べているだけだ。バルザの声と似ている。けれど、もう少し冷たい。事務的な温度の、さらに下側にある。


ミサは筆を置き、裏庭の縁から広場を見下ろした。


石畳の上に、男が膝をついている。羊皮紙の束を両手で握りしめている。指先が白くなっている。左腕に古い包帯——血の染みが乾いて茶色く変色している——が巻かれている。三十代前半くらい。顔には疲弊が乗っている。怒りではない。怒りより前の、何かがある。


背後に立つ白衣の女性。ギルドの書記——ヴェルナ——が、羊皮紙を机の上に置きながら言った。


「ご署名の上、契約は成立しています。解除には違約金の全額支払が前提です」


男が口を開いた。声は低い。短い。


「八ヶ月、剣を握ってた」


一拍。


「週給は、最初の一割」


もう一拍。


「辞めたいって言ったら、初めて『違約金』って聞いた」


広場に集まり始めていた人々が、足を止めて聞いていた。誰も口を開かない。誰かが呟く——「またか」。それだけだった。


ミサは裏庭の縁から降りていた。足元の石が冷たい。靴を履き替える間もなく、階段を駆け下りた。


*


広場に出ると、人波が横に割れた。ミサの白樺の羽織——王宮の客人として与えられたもの——と、背後から現れた金髪の女性が原因だった。エレノア・アルヴェイン。護衛が二人、数歩遅れてついてくる。


「カイル」


男が顔を上げた。目が赤い。けれど、涙はない。乾いている。


「……あなたは」


「ミサ・カーター。王宮の客人です」ミサは言った。「で、その——」


羊皮紙の束を指さした。


「見せてもらえる?」


カイルは握りしめていた束を、少しだけ緩めた。けれど、手から離さない。指先が震えている。


ヴェルナが前に出た。白衣の襟元が整っている。表情がない。正確に言えば、表情の欠如ではなく、感情の不在だ。


「ご本人の契約書です」声が平板だ。「第三者への提示は、記録室にて——」


「広場でいい」ミサが言った。「ここで読ませてもらいます」


一拍。ヴェルナの目が、わずかに細くなる。怒りではない。処理しているのだ。例外を、処理している。


「……かしこまりました」


カイルが羊皮紙の束を差し出した。十二ページ。厚みがある。ミサは広場の石畳に座り込み——靴が汚れるのも構わず——最初のページから読み始めた。


登録日。依頼範囲。報酬基準。装備支給。保険適用。……七ページ目。


指先が止まった。


違約金条項。書体が小さい。他のページより、明らかに小さい。用語は専門的。「合算対象外費用」「累積債務の連帯補填」「契約期間中の機能的減価償却」——。ミサは一つずつ読み上げた。声は落ち着いている。けれど、指先が、七ページ目の三行目をなぞっている。


署名欄の上にある。


『以上を読み、理解した』


ただ、それだけだ。「説明を受けた」という文字はない。


「カイル」ミサが顔を上げた。「この七ページ目の三行目——『合算対象外費用』——これ、意味分かってた?」


男は答えない。首を振った。一度。ゆっくりと。


「分からなかったってこと?」


「……読めた。文字は。でも、何の意味か」カイルの声が少しだけ割れる。「ギルドの奴らが説明した覚えがない」


ミサは羊皮紙を閉じ、ヴェルナを見た。


「署名する前に、この条項を説明したのか」


一拍。


ヴェルナは答えた。声に起伏はない。


「書かれている。読み返してください」


広場に、短い沈黙が落ちた。誰かが息を吸う音が聞こえる。風ではない。


ミサの声が、少しだけ硬くなった。


「読み返す、か」


一拍。


「カイルは文字が読める。けれど、この三行目の『合算対象外費用』の意味を——」指先で羊皮紙の縁をなぞる。「読めるのか」


ヴェルナは何も言わなかった。白衣の袖口を、わずかに整えた。それだけだった。


*


ギルド記録室は狭い。壁面に古い配置図が貼られている。羊皮紙ではなく布地にインクで描かれたもの。雷鳴の塔から延びる主導管——いや、契約管理のノード構造に似ている。円の中に文字がある。読める。けれど、意味を問うと途端に言葉が遠くなる。


ミサは七ページ目を机の上に広げ、指でなぞった。エレノアが向かい側に座っている。護衛は扉の外にいる。


「ここです」ミサの指が、三行目の中央を止めた。「違約金の計算に、支給された装備の消耗費が加算されている。つまり——ギルドが支給した剣が折れたら、それも違約金に上乗せされる」


カイルが息を呑んだ。


「……俺の剣は、三ヶ月で二本折れてる」


ミサはうなずいた。羊皮紙の上から目を離さなかった。


扉が開く。白髪。無表情。ギルド長だ。背筋が伸びている。感情が見えない。正確に言えば、感情を処理する余裕がないのではなく、感情を出さない設計になっている。制度の顔として、そこに立っている。


「王宮の客人か」声が低い。「何の用件で」


ミサは羊皮紙を指さしたまま言った。


「この七ページ目です。違約金条項。署名する前に、意味を説明する義務がある——それだけでいい」


ギルド長が口を開いた。


「制度です」


一拍。


「制度が、ですか」ミサ。


「制度が、です」


もう一拍。沈黙が机の上で重なる。羊皮紙のインクが乾きかけている。ざらついた匂い。


ミサの声は落ち着いている。叫んでいない。けれど、指先が羊皮紙の縁をなぞっている。一度。二度。


「では」続けた。「制度を決めた理由を教えてください。誰の利益のために、この条項が書かれたのか」


ギルド長の表情が動かない。白髪が、窓から差し込む光で淡く浮かんでいる。


エレノアが口を開いた。声は気品がある。公の場での格式ばった表現と、ミサの前での柔らかさが同居している。今日は前者に近い。けれど、芯は同じだ。


「ギルド長」王女は言った。「我々が求めるのは、制度の廃止ではない。制度の中に——説明が、一度だけ入ることだ」


一拍。二拍。三拍。


ギルド長の目が、わずかに動いた。カイルを見た。羊皮紙を見た。ミサを見た。順不同だ。けれど、全部見た。


「……新設は認める」声が同じように低い。「『説明義務条項』として、来月以降の契約に付記する。ただし——」


指先が机を叩いた。一度。


「既存契約への遡及適用はない。制度は過去を変えない」


ミサはうなずいた。分かってる。制度は動く。けれど、変わらない。それは後で考える。今は、カイルの左腕の包帯と、握りしめていた羊皮紙の指先の白さを消すことが先だ。


「では、カイルさんの違約金は」


ギルド長が答えた。声に起伏はない。数字を伝えているだけだ。


「十分の一」


一拍。


カイルが息をした。浅い。


「……五ヶ月分の報酬だな」


「その通りだ」


ミサは羊皮紙を閉じた。十分の一。全額免除ではない。契約文化の根本は、まだそこにある。けれど、八ヶ月の拘束から、五ヶ月の負債になった。それは、違う。


*


広場に戻ると、人波がまだ割れたままだった。誰かが「終わったのか」と呟く。誰かが「十分の一?」と繰り返す。誰も笑っていない。誰も怒鳴っていない。ただ、聞いていた。


カイルは羊皮紙を受け取った。十二ページの束。七ページ目はまだ小さい書体で、違約金条項が並んでいる。けれど、その下に一行だけ新しい文字がある。『署名前に本文の全条項を口頭説明すること』。


男は広場を出る前に、一度だけ振り返った。


「……ありがとう」声が低い。疲れている。「半分しか取れなかったけど」


ミサは何も言わなかった。うなずいた。それだけでよかった。


カイルの背影が、人波に吸い込まれていく。左腕の包帯が、午後の光で茶色く見える。安堵と残り物——その両方が、背中に乗っているように見えた。


*


王宮東翼の部屋。


ミサは机に座り、羊皮紙を広げた。三行がある。


『治す=傷が消える(本来)/時間がかかる(現在)』

『加護=誰かの選択(本来)/推薦と寄付(現在)』

『魔法=言葉で現実を直接規定する(本来)/魔力を消費し、上限が許可される(現在)』


三行目の下。四行目。空欄。


筆を拾う。インク壺を開ける。指先で固まったインクを溶かす。大きく、はっきりと。


『契約=合意(本来)/片務的義務・説明不在(現在)』


インクが羊皮紙の表面に染み込む。ざらついた筋が残る。


ミサは筆を置いた。指先が、一度だけ震えた。それだけだ。表情は変わらない。けれど、羊皮紙の縁に指が乗ったまま、三秒ほど動かなかった。


(異世界小説では、契約は「仲間を縛る」ためにある。ここでは、契約は「人を取り上げる」ためにある)


その差が、本来と現在を分けている。制度が動くことと、制度が変わることの間に、まだ距離がある。けれど、四行目が埋まった。三行から四行へ。調査の範囲が、魔法・医療・加護の三領域から、法制度・契約の四領域へ広がった。


窓の外で、塔の青白い光が明滅している。一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。確かに。消えない。


ミサはスマートフォンを掌に載せた。冷たい。画面の隅——左下、フレームとガラスの境目——に、あの小さな黒い点がある。電源ボタンを押す。反応しない。まだ、違う。

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