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異世界の言葉が壊れている ~女子高生ミサは、失われた世界の常識を取り戻す~  作者: 伝説の男前


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足りないと決まっている朝

# 第24話 足りないと決まっている朝


朝の光が、王宮東翼の窓枠を越えて、机の上の羊皮紙に落ちている。三行の文字の上に、薄い影が横たわったまま動かない。


『治す=傷が消え、機能に戻る(本来)/創部閉鎖・疼痛閾値以下で完了とされる(現在)』

『加護=誰かの選択・恩寵(本来)/推薦状と寄付の登録手続き(現在)』

『魔法=言葉で現実を直接規定する(本来)/魔力を消費し、上限が許可される(現在)』


三行すべてが埋まっている。インクの筋が、羊皮紙のざらついた表面に沈み込んでいる。指先で触れると、まだ少し湿っている箇所がある。昨日、バルザの記録室で書き落とした三行目。あのとき、指先が震えたのは覚えている。けれど、今は震えていない。


震えが、もう必要な場所ではない。


ミサは羊皮紙の下端を見下ろした。三行目の下には、空白がある。筆先で凹みをつけた痕跡だけが残っている。まだ言葉が入っていない箇所。「十分」だ。あるいは「足りない」。どちらが正しいのか、まだ決めていない。


窓の外では、塔の青白い光が明滅している。一拍。二拍。三拍。四拍。五拍。規則正しい。心拍のように。昨日もそうだった。一昨日も。何日も前も。


(……全部埋まった)


満足感がある。けれど、そのすぐ下には別の感覚が沈んでいる。三行が埋まったことで、四行目が空っぽに見えてしまう。三つの「本来」と「現在」の隙間を埋めたのに、まだ埋まっていないものがある。制度ではない。魔法でもない。もっと手前の、もっと身体の奥にある何か。


ノックが聞こえた。三回。一定の間隔で。


「どうぞ」


ドアが開いた。一人だった。護衛がいない。


エレノア・アルヴェイン。金髪の髪が、窓からの朝の光を受けて淡く浮かんでいる。表情は変わらない。けれど、肩が少しだけ落ちている。昨日の夜とは違う。今日は、指先が動いていない。


王女は机の向かいに座った。椅子を引きずる音が、石畳の部屋に小さく響く。


「鍛冶町で、三食が二食になったと聞く。それについて、お前は何を知りたいのか」


声は落ち着いている。断定ではない。確認だ。探しているのだ。何を探しているのか、ミサにはまだ分かっていない。けれど、昨日の「だが……」とは違う。今日は、問いを投げている。


ミサは羊皮紙の下端を指先でなぞった。空欄の上で。


「『十分』の意味です」


一拍。


「三食が二食に減って、それを『当然』と言っている。その『当然』が、どの時点でそうなったのか。誰が決めたのか。それ以前は——」


ミサは言葉を切った。


エレノアは何も言わなかった。羊皮紙の三行を、もう一度見下ろした。それから顔を上げ、窓の外を見た。塔の光。一拍。二拍。三拍。四拍。五拍。規則正しい。


「行くぞ」


王女が立ち上がった。椅子が石畳の上に滑る音。ミサは筆とインク壺を羊皮紙の上に乗せ、鞄——いや、この世界では革の袋——にしまった。


*


鍛冶町への道は、王宮の正門を出て東へ三本目の路地を抜けた先にある。馬車が二台ほど走っているが、その数は少ない。代わりに、足音が多い。誰かが鉄を叩いている音が、まだ遠くから聞こえる。コン、コン、コン。一定の間隔で。規則正しい。


空気は違う。王宮の廊下とは違う。熱がある。炉の熱と、金属の焼ける匂い。石畳の上に落ちた鉄の粉が、靴底に挟まる。ミサは鼻を少しだけ皺寄せた。この匂いは、異世界小説の中で何度も読んだことがある。けれど、実際に吸うのは初めてだ。


鍛冶町の路地は狭い。両側に炉がある。赤黒い炎が、石壁の隙間から漏れている。職人の影が、熱気で揺れている。誰かが鉄を叩く音。コン。コン。コン。一定の間隔で。規則正しい。塔の明滅と、同じリズムに見える。


ミサは足を止めた。


「……この音」


振り返った。エレノアが、少しだけ眉を上げた。


「何だ?」


「塔と同じ間隔です。一拍、二拍、三拍。槌もそう」


エレノアは何も言わなかった。けれど、視線が路地の奥——炉の向こう——を一瞬だけ追った。


路地の奥に、一人の男が立っている。四十代くらい。前掛けに鉄粉が付いている。手首から肘にかけて、筋肉が浮いている。けれど、鎖骨のあたりは少し凹んでいる。顔色は悪い。目の下に、薄い影がある。


アルドだった。後で分かった。名前は、路地の中で初めて呼ばれたとき知った。


「殿下」アルドが頭を下げた。声は低い。熱気の中で、少し掠れている。「何の御用でしょうか」


エレノアが答えた。ミサは隣に立ち、羊皮紙の袋から筆を取り出していた。インク壺の蓋を開ける。固まったインクの粒を、指先で溶かす。


「朝食は何か食べているのか」エレノアが尋ねた。「三食だったはずだが」


アルドは少しだけ目を細めた。驚きではない。確認だ。


「朝はパンと水です」


即答だった。迷いがない。事実を伝えているだけだ。


「昼は?」


「肉汁の薄いスープ。時折、野菜が浮かんでます」


「夕食は?」


アルドは少しだけ間を置いた。一拍。二拍。それから言った。


「……ありません」


声に起伏はない。けれど、ミサの指先が、羊皮紙の上で止まった。


(三食が二食になった)


エレノアの言葉が、頭の中で反響する。三食が二食に減った。それを、当然と言っている。


「いつからか」ミサが尋ねた。「二食になって」


アルドは炉の方を向いた。赤黒い炎が、彼の横顔を照らしている。


「祖父の代から、という話だけは聞きました」


一拍。


「それ以前は?」


アルドが、少しだけ目を伏せた。鉄粉の前掛けの裾を、指先で弄んでいる。


「……誰も、話さなかった」


声は小さい。掠れている。炉の熱気の中で、その声が少しだけ揺れる。


ミサは前に出た。アルドの手首——内側——を、指先で触れた。腱が浮いている。皮膚が張っている。骨と筋肉の間に、脂肪がない。三週間くらいで出る徴候だ。栄養不足。けれど、この世界では「痩せている」で済む。


「手首を」ミサが言った。「内側を。腱が浮いてる。皮膚が張ってる。これ、三週間くらいで出るやつです」


アルドは指先を見た。それから、自分の手首を見た。視線が一度だけ揺れた。瞳の奥に、何かがある。けれど、すぐに消える。


「……痩せているだけです」


笑った。声は低い。炉の熱の中で、その笑い声が少しだけ掠れている。


ミサは何も言わなかった。指先を離した。羊皮紙の上で、筆を握り直した。インクが固まりかけている。指先で溶かす。


(三週間)


この世界では、三週間で出る徴候が、「痩せている」になる。「足りない」と言わない。「足りない」が、そもそも別の意味を持っているなら——


ミサは筆を走らせた。大きく、はっきりと。三行目の下。空欄の上で、インクを落とした。


『足りない=必要な量に届かない(本来)/「二食で十分」と決まっている(現在)』


四行目が、羊皮紙の上に沈んだ。ざらついた表面に、インクの筋が残っている。指先が震えている。けれど、表情は変わらない。


*


そのときだった。


塔の光が、止まった。


一拍。二拍。三拍——


四拍目が、来ない。


半拍。一拍。二拍。沈黙。路地の空気が、固まるように静止する。炉の炎が、一拍だけ揺れて、また静かになる。


コン。コン。コン——


鉄槌の音が、消えた。


一つ、ではなく、全部。路地全体から、規則正しく続いていた槌の音が一斉に止まった。消え方がある。突然切れるのではない。一拍遅れて、次の一拍で、もう響かない。まるで、音そのものが路地の空気を抜けていったように。


アルドが、炉の前で槌を握ったまま動いていない。前掛けの鉄粉が、熱気の中でまだ揺れている。瞳が、上を向いている。塔を見ている。


「……塔が」


声が低い。掠れている。炉の熱の中で、その音が少しだけ震えている。


「止まった」


ミサも上を見ていた。塔のてっぺん。青白い光。明滅しているはずの箇所が、暗い。一拍分。二拍分。三拍分——


光が戻った。


一拍。二拍。三拍。四拍。五拍。規則正しい。心拍のように。止まる気配はない。まるで、何事もなかったかのように。


アルドが槌を降ろした。コン。コン。コン。一定の間隔で。けれど、その音は、先ほどまでのものとは少し違う。少しだけ遅い。一拍だけ、迷っている。


路地の職人たちが、次々と槌を上げ始めた。コン。コン。コン。音が戻ってくる。けれど、最初の数秒の間、どの槌も完全に同じ間隔ではない。一拍だけずれている。二拍で戻る。三拍で揃う。


誰も説明しない。誰も「なぜ」とは言わない。アルドは炉の前に立ち戻り、鉄を叩く。前掛けの鉄粉が、熱気の中で揺れる。


ミサは羊皮紙の四行目をなぞった。指先が震えている。インクの筋の上で、指紋が残る。「足りない」。その文字の上で、親指が一度だけ止まる。


(『足りない』が、足りないって意味じゃなく、「二食で十分」って意味になってる)


声が、自分の内側から浮かぶ。誰にも聞かせていない。けれど、羊皮紙の上の四行目が、それを裏付けている。


(これが本来の意味なら、この世界は最初から二食の世界だ。本来じゃないなら——)


指先が、もう一度震える。


(誰かが、変えた)


アルドが、槌を止めた。少しだけ振り返る。ミサと目が合う。瞳の奥に、さっきと同じ揺れがある。けれど、今度は消えない。少しだけ残っている。「痩せているだけだ」と言った声の、裏側にある何か。


ミサはうなずいた。一言も言わなかった。代わりに、羊皮紙を閉じた。四行目のインクが、まだ湿っている。指紋が、その上に重なっている。


エレノアが、路地の端に立っていた。塔を見上げている。表情は変わらない。けれど、肩が少しだけ落ちている。先ほどと同じだ。けれど、今は、指先が動いている。前掛けの鉄粉を払うように、自分の袖口をなぞっている。一度。二度。三度。


*


夜になった。


王宮東翼の部屋は、また暗い。窓の外では、王都の灯りが数百点光っている。馬車の音。誰かの笑い声。遠くで鐘が鳴る。塔の青白い光が、規則正しく明滅している。心拍のように。一拍。二拍。三拍。四拍。五拍。六拍。止まる気配はない。


けれど、今日、一度だけ止まった。


ミサは枕元にスマートフォンを置いた。冷たい。電源ボタンを押す。反応しない。もう一度。しない。画面左下——フレームとガラスの境目——に、小さな黒い点がある。昨日からあるものだ。一昨日も。それ以前も。


暗い部屋の中で、その点が微かに——一度だけ——光を帯びた。


青白く。塔と同じ色。半拍ほどで、消えた。指先が届く前に。ただの黒い点に戻った。ミサは手を伸ばした。届かなかった。もう、ない。触れたら消えるというより、触れる前に消えている。


(……また)


呟いた。声は、自分でも驚くほど小さかった。昨日も同じだった。けれど、今日は違う。今日は、四行目が羊皮紙の上にある。「足りない」が、「二食で十分」となっている。三週間で出る徴候が、「痩せている」になっている。


窓の外では、塔の光が明滅している。一拍。二拍。三拍。四拍。五拍。六拍。規則正しい。心拍のように。けれど——今日、一度だけ止まった。理由は、誰も知らない。アルドも知らない。路地の職人も知らない。エレノアも、まだ言葉にしていない。


ミサは机に戻った。羊皮紙を広げる。四行目の下。空欄の上で、筆を走らせた。小さく。はっきりと。


『塔が止まった時刻:第三日・午後二時十七分。理由は、誰も知らない。』


一行のインクが、羊皮紙の表面に沈む。ざらついた筋。指先が、その上を一度だけなぞる。消えない。書けば、消えない。


部屋の隅で、エレノアが立っている。無言のまま、机の上の羊皮紙を見ている。四行目。そして、その下の一行。瞳が、文字の上で止まっている。動かない。


一拍の沈黙。二拍。三拍。塔の光が、窓の外で明滅している。規則正しい。心拍のように。


「……塔が止まった」


エレノアの声は、低い。普段の柔らかさがない。断定ではない。確認だ。探しているのだ。答えを、まだ探している。けれど、今日は、昨日より少しだけ近い。


ミサは筆を置いた。羊皮紙の上で、指先が一度だけ震える。


「うん」


声は小さい。けれど、揺れていない。


「一度だけ。理由は、誰も知らない。でも、止まったのは事実だ」


エレノアは何も言わなかった。羊皮紙の一行を、もう一度見下ろした。それから、窓の外を見た。塔の青白い光が、規則正しく明滅している。心拍のように。一拍。二拍。三拍。四拍。五拍。六拍。止まる気配はない。


けれど、今日、一度だけ止まった。


ミサは羊皮紙を閉じた。四行と一行のインクが、まだ湿っている。指紋が、その上に重なっている。消えない。書けば、消えない。


窓の外では、塔の光が明滅している。規則正しい。心拍のように。


けれど、一拍だけ——今日だけ——四拍目が来なかった。

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