魔法の「代償」
# 第二十一話 魔法の「代償」
夜明け前の王宮東翼は、まだ灰色だった。
窓の外が白っぽくなり始めるだけで、部屋の中は冷たい。石造りの壁から滲む寒さが、肩の上を這うように伝わってくる。ミサは机に座り、羊皮紙三枚を並べていた。筆は止まったまま。インク壺の蓋が開いた状態で、乾きかけている。
一番上の羊皮紙には、二行が埋まっている。
『治す=創部が閉じ、痛みが閾値以下(この世界の定義)/傷が消え、機能に戻る(本来)』
『加護=誰かの選択・恩寵(本来)/推薦状と寄付(現在)』
三行目。空白だ。筆先で凹みをつけた痕跡だけが、ざらついた表面に残っている。「魔法=コスト以上の何か」。その「何か」が、まだ何であるかを教えてくれない。
昨日——いや、二日前か——バルトが言った言葉が、耳の奥で繰り返されている。*使える。ただし、魔力の量と、訓練の期間、そして加護の有無が関係する。*
個人の資質だ。魔力の量。訓練の期間。加護の有無。どれも「その人次第」の話だった。けれど、羊皮紙の上では、二行とも「制度」の問題に収束している。治すには時間と薬草と神官の手が必要で、加護には推薦状と寄付が必要だ。個人の資質ではない。仕組みの問題だ。
魔法も、同じはずだ。なのに三行目は埋まらない。
窓の外では、塔の青白い光が明滅している。
一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。五拍。六拍——七拍。八拍。規則正しい。けれど、四拍目が、消えない。
ミサは目を閉じた。瞼の裏側でも、その間隔が続いている。
*三連続だ*
昨日も見た。一昨日も見た。前の夜も見た。気のせいだと思った回数が、もう意味を失っている。羊皮紙に書けば、消えない。けれど、まだ書いていない。書くほどに、確信になる。確信になると、怖い。
ノックが鳴った。三回。一定の間隔で。
「どうぞ」
扉が開いた。一人だった。護衛が二人、その背後にいる。金髪の髪が、暗い部屋の光の中で淡く浮かんでいる。エレノア・アルヴェイン。表情は変わらない。けれど、肩が少しだけ落ちている。昨日とは違う。
王女は机の向かいに座った。椅子を引きずる音が、石畳の部屋に小さく響く。
「ギルドの公開演習だ」エレノアが言った。「午前十一時。小規模転移術の実演がある」
ミサはうなずいた。
「一時間」王女が続けた。「それ以上は退去する。護衛を付ける」
「分かってる」
ミサの声は平らかだった。けれど、胸の奥では別の声が鳴っている。*一時間で三行目を埋められるか。* 二行目は、治癒院で一日かけた。加護は神殿の記録室で半日費やした。魔法——この世界で最も「当たり前」な言葉——が、一時間で埋まるわけがない。
「……ありがとう、殿下」
エレノアは何も言わなかった。立ち上がり、扉に向かった。途中で足を止める。背を向けたまま、言った。
「ミサ」
一拍。
「昨日の言葉、宮廷で誰にも言わないでほしい」
声は落ち着いている。けれど、「昨日の言葉」という言い方が、胸を少しだけ刺した。*我々は、そう教えられる。それが世界の摂理だと。* その「だが」の続きが、まだ言葉になっていないことを、王女自身も知っている。
「分かった」
扉が閉まった。護衛二人の足音が、廊下で遠ざかっていく。
ミサは羊皮紙の三行目を指先でなぞった。ざらつき。凹み。*コスト以上の何か。* 何だろう。魔力の消費か? バルトの説明では「使える」のだ。つまり、消費して使う。それならコストは魔力そのものだ。けれど、二行目の隙間——制度と本来の意味の間にあるもの——と同じ構造で、魔法にもあるはずだ。
窓の外では、塔の光が明滅している。一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。五拍。六拍——七拍。八拍。
*三連続。消えない。*
ミサは筆を拾い直した。インクが少し固まっている。指先でなぞって溶かす。鞄——いや、この世界では羊皮紙の束——に筆とインク壺を仕舞い、扉に向かった。
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ギルド広場は、王都の北東にある。石畳の道が二ブロック続き、その先に半円形の観客席が広がっている。中央には木製の台があり、その前で三十人程度の観客が並んでいた。朝の光が斜めに差し込み、石畳の上に長い影を落としている。
ミサは護衛二人に先導され、観客の後方に立った。羊皮紙の束——三枚——を胸の前で握りしめている。ざらついた感触が、指先に伝わる。
台上の男が、声を出した。
「今日は小規模転移術の実演だ。見ておれ」
三十代くらい。痩せていて、無地の灰色の長衣。胸元に小さな紋章——ギルドの印章だ。手には石。掌より少し大きい、角の取れた灰色の石。
男が手を前に伸ばした。指先から淡い光が滲む。一瞬。消える。石が、三メートル先の地面に転がった。音がした。*カタッ。* 軽い音。観客が拍手した。
一回目。
「次だ」
同じ動作。石が五——いや、三メートル先へ。*カタッ。* 拍手。
二回目。
ミサは羊皮紙の束を握りしめたまま、見ていた。光の滲み方。手の角度。指先の位置。どれも同じだ。けれど——
三回目で、違和が来た。
男が手を伸ばす前に、唇を動かした。小さく。観客には届かない音量で。
「……認証範囲内」
石を放した。*カタッ。* 三メートル先。拍手。けれどその直前——ミサの目が、地面に移った。広場の床に埋め込まれた金属製の枠。正方形。一辺が二メートルくらい。表面は冷たい光を帯びていて、石が落ちた瞬間、微かに明滅した。
四回目。五メートル先。*カタッ。* 拍手。観客の誰かが、「おお」と小さく言った。
五回目——
止まった。
男の手が、半分の位置で固まっている。指先の光が、滲んで、消える。石は動かない。三秒ほど、無音が続いた。観客席に「え?」という声が一瞬、上がった。
男が手を下ろした。広場の地面——金属の枠——を指さした。
「今日、ここの枠はここまでだ」
声が平らかだった。怒りでも、恥でもない。事実を伝えているだけだ。バルトの声と似ている。感情のない確認。
観客席が、少しざわついた。誰かが隣の人に言った。「まあ、代償だろ?」 別の声。「毎日同じでいいじゃん」 笑い声。軽い。
*代償。*
ミサの指先が、羊皮紙の縁の上で止まった。ざらつき。その言葉——「代償」——が、二行目の隙間と重なる。治すには時間がかかる。加護には推薦状がいる。魔法には——代償がある。個人の資質ではない。枠がある。範囲がある。
男は台上から降りていた。観客の間を歩いてくる。灰色の長衣の裾が石畳に擦れる音がする。ミサは観客の列を離れ、一歩前に出た。護衛が振り返る。エレノア——列の前方にいる——が、何も言わなかった。
「あの——」
男が足を止めた。眼鏡の奥から、ミサを見た。
「代償って、何が?」
一拍。男は広場の地面を指さした。金属の枠。冷たい光を帯びた正方形。
「登録料だ」
声は低い。事務的だ。
「ギルドに払う。毎月。金額はランクで変わる」ミサの視線が、地面に移った。「そして——」
男が、枠を指さしたまま続けた。
「この範囲を超えて使えば、俺の認証が通る保証がない。通らなければ、石が飛ぶかどうかは、俺に分からない」
広場に静寂が落ちた。観客が、ちらりとミサを見て、また男を見た。誰かが小さく、「まあ」と呟いた。「世の常だろ」。
ミサの指先が震えた。羊皮紙の縁を握りしめている。ざらつきが、痛いほど伝わってくる。
*認証。登録。保証。範囲。*
塔の青白い光。一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。五拍。六拍——七拍。八拍。
*同じ構造だ。*
全部、同じ構造。治すには神官の手と記録が必要で、加護には神殿の祈願と推薦状がいる。魔法にはギルドの登録料と認証範囲がある。個人が「使える」のではなく、制度が「通す」。本人の意思ではなく、枠が許可する。
*认证。登録。塔の光。同じ構造。全部、同じ構造。*
ミサは広場の隅——石畳の影——に腰を下ろした。羊皮紙を膝の上に広げた。筆を取り、インク壺を開ける。指先で固まったインクを溶かす。ざらついた表面に、筆先が触れる。
三行目を埋めた。大きく、はっきりと。
『魔法=認証を通した法則の借用、範囲は登録で限定(この世界の定義)』
『魔法=意図で現実に干渉する力、本来の範囲に制限はない(本来)』
筆が震えた。インクが滲む。「限」の字の横画が、少しだけ太くなる。けれど、消えない。羊皮紙に書けば、消えない。
*三行埋まった。*
ミサは筆を置いた。指先が白くなっている。胸の奥で、何かが鳴っている。興奮か、恐怖か、あるいはその両方か、区別がつかない。二行目のときも、この感覚だった。けれど今回は違う。三つ目が揃った。隙間が、一つの方向を向いている。
隣に立っていたエレノアが、声をかけた。小さく。
「……読ませて」
ミサは羊皮紙を差し出した。王女は三行すべてを読んだ。一拍。二拍。三拍。沈黙。金髪の髪が、朝の光の中で淡く揺れている。表情は変わらない。けれど、指先が羊皮紙の縁をなぞっている。一度。二度。
エレノアが口を開いた。
「ミサ」
声は普段の柔らかさがない。低い。探しているのだ。答えを、まだ探している。昨日の「だが」の続きを、今日は別の形で出してきた。
「我々は——」
一拍。
「教えられる、とは言わない」
もう一度、一拍。
「教えられるはずだった。だが、実際には——」
三拍目の間が、少し長かった。
「教えられた。理由を知らずに」
声は小さい。叫んでいない。けれど、その一言一句が、石畳の広場に落ちるたびに、微かに響いている。観客の誰かが、「なんだ?」と隣に言った。誰も聞いていない。
ミサが顔を上げた。エレノアは窓の外——いや、塔の方——を向いている。青白い光。一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。五拍。六拍——七拍。八拍。
*三連続。消えない。*
王女が目を閉じた。瞼の裏側でも、その間隔が続いているはずだ。ミサは知っている。自分も同じだから。
「……三つ全部」エレノアの声が、さらに小さくなる。「同じ穴から見ていたのですね」
自分に言っているのか、ミサに言っているのか。声は、どちらにも向いていない。広場の空気に溶けていく。
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王宮へ戻る道は、二ブロック。石畳の路地が曲がりくねっていて、路地の角を曲がるたびに、塔の青白い光が視界に入ったり出たりする。朝の光が強くなっている。人通りが増えた。馬車が一台、通り過ぎる。煙突から黒い煙。
二人の距離が、朝とは少し違う。護衛が前を歩いている。ミサは羊皮紙の束——三枚——を胸の前で握りしめている。ざらつき。重さ。もう、空白ではない。三行目が、埋まっている。
エレノアが足を止めた。路地の角の手前で。ミサも止まる。
「明日」王女が言った。「ギルドの登録記録を見せてもらえるか」
ミサはうなずいた。
「『認証範囲』がいつ設定されたのか」
一拍。エレノアが続けた。声は小さい。けれど、硬い。
「バルトが言った。『魔法は誰でも使える。ただし』」
路地の向こうで、誰かが笑い声を上げた。馬の嘶き。遠くで鐘が鳴る。塔の光が、角を曲がるたびに青く明滅する。一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。五拍。六拍——七拍。八拍。規則正しい。けれど、四拍目が、消えない。
「あの『ただし』の先に」エレノアは目を細めた。「何が書いてあるのか」
ミサは何も言わなかった。代わりに、羊皮紙の束を鞄の奥にしまった。三枚重ねる。ざらつきが、布越しに伝わってくる。三行目。もう、空白ではない。
路地を歩き始めた。塔の光が、頭上でもう一度明滅する。一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。五拍。六拍——七拍。八拍。
*三連続。消えない。*
ミサは歩きながら、胸の前で鞄を握りしめていた。ざらつき。重さ。三つの隙間が、一つの方向を向いている。治す。加護。魔法。全部、同じ構造。登録。認証。範囲。保証。
塔の青白い光が、路地の先にまた現れた。明滅している。心拍のように。止まる気配はない。けれど——四拍目が、半拍だけ遅い。いつもと違う。あるいは、気のせいではない。
三連続だ。消えない。
ミサは羊皮紙を三枚重ねた感触を、掌の奥で確かめた。もう、空白ではない。




