棚の奥に、届かない瓶がある
# 第二十話 棚の奥に、届かない瓶がある
朝の光が、薬草の香りを切った。
王都商業区・魔法薬調合所「緑瓶」。木のカウンターの上に、大小の瓶が三列に並んでいる。赤い液体。琥珀色の液体。白濁した液体。それぞれに羊皮紙のラベルが貼ってある。手書きの文字。整っている。けれど、その数が少ない。
棚の上段には、空の瓶が六つ、向こうを向いて置かれている。中身がない。あるいは、まだ入っていない。どちらか分からない。
ミサはカウンターの下で膝を抱え、薬草を刻んでいた。包丁ではなく、石製のすり鉢と杵だ。この世界では、そうするらしい。力任せに潰すと、液が出すぎる。だから、叩いて、碾いて、形を変える。
「まあ、なんとかなるやろ」
調合所の主人——バジル・グレイ——が、背後から声をかけてきた。三十代くらい。頬が丸く、目が明るい。失敗しても笑う男だ。先週、薬草の配合を間違えて瓶が破裂したときも、「まあ、なんとかなるやろ」で済ませた。
「バジルさん」ミサは杵を止めた。「上段の空の瓶、何が入ってたんですか」
「回復剤や」バジルが即答した。「擦り傷用の基本タイプ。一週間前に使い切った」
「……一週間」
「ええ。原料の毒消し草と月露草が、先月の取引で品薄になってもうてな」
ミサは杵を握り直した。力が入る。石が、かちりと鳴る。
「つまり、今、擦り傷を治す薬がない」
「あるわい」バジルは棚の中段から小さな瓶を取り出した。「ただし、量が少ない。一回分だけ。しかも——」
彼は瓶を、ミサの前に置いた。ラベルを見る。数字が書かれている。
「金貨二枚」
(……二枚)
先週、ギルドで受けた護衛仕事の報酬は、仲介料と装備費を引いて、銀貨十四枚だった。金貨一枚は銀貨十枚に換算される。つまり、この瓶一本で、約一週間分の稼ぎが飛ぶ。
「バジルさん」ミサが尋ねた。「誰が、これを買えるんですか」
バジルは少しだけ目を細めた。笑わなかった。
「買える人は、買うわ。買えない人は——」
彼は棚の上段の空瓶を指差した。六つ。向こうを向いて。
「待っとる」
沈黙が落ちた。すり鉢の中の薬草が、まだ半分残っている。刻むのが面倒で、放置されている。
*
午後になって、病人が来た。
一人ではない。三人。若い男が、少女の手を引き、もう片方の腕に年配の女を支えている。男は二十代前半。頬がこけている。少女は十歳前後。年の女は——六十くらいだろうか。膝を曲げられず、棒をついている。
「すみません」男が言った。「回復剤、一本だけ、あると聞きました」
バジルは棚を見た。上段の空瓶。中段の小さな瓶。三つ残っている。
「ありますわ」彼は即答した。「ただし——」
ラベルを示す。金貨二枚。
男の手が、少女の指を握りしめた。少女は何も言わない。ただ、兄の袖を掴んでいる。年の女は棒を地面に立てたまま、動かない。
「……银貨なら?」男が尋ねた。声は低く、掠れている。「二十枚で——」
「規定では、金貨二枚です」バジルは言った。声は穏やかだ。けれど、柔らかくない。「申し訳ないが、仕入れの原価が——」
「分かってます」男は切った。「分かってるんです。ただ、母さんが膝を曲げられなくなって、三週間になります。歩けない。仕事にも行けなくて。俺だけじゃ——」
声が、途中で切れた。
少女が、兄の袖から指を離した。代わりに、バジルのカウンターに手を伸ばす。届かない。指先が、木の縁をかすめる。
ミサは、杵を握ったまま動けなかった。
(……三週間)
異世界小説では、回復魔法を唱えると光が広がって、傷が消える。一瞬だ。血飛沫が引いて、指先が動いて、熱が下がって、「完了」。そういう演出だった。ここでは、三週間。膝を曲げられない。歩けない。仕事に行けない。
そして、金貨二枚がないと、その「補助」すら届かない。
「……すみません」バジルが言った。声に、初めて疲れた色が混ざった。「今日だけ、一本、銀貨十五枚で——」
男は頭を下げた。深く。少女の手から、兄の袖が滑り落ちる。代わりに、年の女が棒を地面に叩きつけた。一回。音だけが、店の中に残った。
三人が去っていった。馬車の音も、鐘の音も、遠くで誰かの笑い声も、その足音の後に聞こえた気がした。しないのかもしれない。
バジルは棚の上段を見た。空の瓶。五つになった。
「まあ」彼は言った。「なんとかなるやろ」
笑わなかった。
*
午後三時。ミサは王宮東翼の部屋に戻っていた。
エレノアが既に机に座っている。羊皮紙——ミサのメモ——を前に、長い沈黙を続けている。金髪の髪が、窓から差し込む午後の光を受けて淡く光っている。表情は変わらない。けれど、指先が羊皮紙の縁をなぞっている。一度。二度。
「殿下」
エレノアは顔を上げた。
ミサは鞄——いや、この世界では布の袋——から羊皮紙の切れ端を取り出した。午前に書き留めた三行を見せる。
『回復剤=補助的(擦り傷三日・骨折二週間)』
『回復剤=即効性・万能(本来)』
『供給=原料の取引に依存(現在)/独立した存在(本来?)』
三行目の「本来?」に、疑問符が付いている。まだ確信がない。けれど、「多分」も「気がする」もない。「?」だけがある。
「殿下」ミサは言った。「薬が足りないんです。生産できる量と、必要な量の間に隙間があります。そして、その隙間を埋めるのは、金です。推薦状じゃない。寄付でもない。ただの、金」
エレノアは何も言わなかった。羊皮紙の上で指を止めたまま、ミサを見ていた。
「つまり」ミサは続けた。「医療が、富の問題になっている。加護が推薦と寄付だったように。魔法設備が維持費で停電するのと同じ構造です」
一拍の沈黙。
「……我々は、そう教えられる」エレノアが言った。声は低い。普段の柔らかさがない。「薬草の取引は、商人組合の管轄だ。調合所は独立した営業権を持つ。王宮が干渉できる領域ではない」
「分かってる」ミサはうなずいた。「だから殿下に頼んでる。制度を変えろってんじゃない。ただ——」
彼女は羊皮紙を指さした。三行目の「?」。
「『本来、そうじゃなかったはず』と、思えるんです。薬が足りなくて人が待つのは、この世界の仕様じゃなくて、何かの……不具合だと、思います」
エレノアは長く目を閉じた。
窓の外では、雷鳴の塔の青白い光が明滅している。規則正しく。心拍のように。ミサも同時に窓を見た。一拍。二拍。三拍——四拍。五拍。六拍。
今日は、遅れていない。気のせいだった。あるいは、昨日までの「半拍」が、まだ消えていないだけだ。
「……調べさせてほしい」エレノアが言った。「調合所の仕入れ記録。商人組合の取引台帳。薬草の産地と流通経路。一週間かかってもいい」
「うん」
「ただし」王女の声が、少しだけ硬くなった。「ミサ。お前は、まだこの国の制度を知らない。『おかしい』と感じたことが、本当に異常であるとは限らない。我々が——」
「否定してるんじゃない」ミサは即答した。声に、先ほどの硬さがない。「ただ、本来ならそうじゃないはずのことが、なってる。それだけ。……多分」
最後の「多分」が、少しだけ軽かった。昨日までの「多分」より、軽い。けれど、まだある。捨て切れていない。
エレノアはうなずいた。指先で羊皮紙の縁をなぞるのを、やめた。代わりに、窓の外を指した。
塔。青白い光。明滅。止まる気配はない。
*
夜になった。
王宮東翼の部屋は、また暗い。窓の外では、王都の灯りが数百点光っている。馬車の音。誰かの笑い声。遠くで鐘が鳴る。塔の青白い光が、規則正しく明滅している。心拍のように。
ミサは枕元にスマートフォンを置いた。冷たい。電源ボタンを押す。反応しない。もう一度。しない。画面の隅——左下、フレームとガラスの境目——に、小さな黒い点がある。昨日からあるものだ。けれど今、暗い部屋の中で見ていると、その点が微かに光を帯びている気がする。
指先で触れた。ただの黒い点に戻った。
「……まだ、違う」
呟いた。声は、自分でも驚くほど小さかった。
机の上の羊皮紙を、もう一度広げる。今日書き加えた行が、三つ並んでいる。
*治す=傷が消える(本来)/時間がかかる(現在)*
*加護=誰かの選択(本来)/推薦と寄付(現在)*
*薬=誰でも届く(?)/金で決まる(現在)*
三行目の「?」が、まだ埋まっていない。けれど、「多分」も「気がする」もない。「?」だけがある。
明日は、商人組合の取引台帳を見る。バジルさんの仕入れ記録を写す。薬草がどこから来て、誰の手を経て、どの棚に置かれるか。その連鎖の中で、どこが切れているのか。
(……全部、繋がってる)
異世界小説では、回復ポーションは「アイテム」だった。使うと治る。それだけ。仕組みは説明されない。代償も書かない。
ここでは、原料がある。取引がある。調合がある。棚がある。そして、棚の奥に、空の瓶が六つ——今は五つ——向こうを向いている。
(……おかしくない)
(おかしい)
(どっちだ)
窓の外では、塔の光が明滅している。一拍。二拍。三拍。四拍。五拍。六拍。規則正しい。心拍のように。止まる気配はない。
ミサはスマートフォンを掌に載せ、暗い画面を見つめた。電源ボタンを押す。反応しない。もう一度。しない。
黒い点だけが、フレームとガラスの境目に残っている。光も、影も、ない。ただ、そこにある。
「……まだ、違う」
呟いた。声は、自分でも驚くほど小さかった。
窓の外では、塔の光が明滅している。一拍。二拍。三拍——四拍。五拍。六拍——七拍。八拍。規則正しい。けれど、どこかで、半拍だけ遅い気がするという感覚が、消えていない。
気のせいかもしれない。昨日もそう思った。今日もそう思う。
けれど、羊皮紙に書けば、消えない。
ミサは目を閉じた。枕元のスマートフォンが、冷たいまま、暗いまま、そこにある。黒い点が、微かに——あるいは、微かにない——光を帯びている。
塔の光が、明滅している。心拍のように。止まる気配はない。




