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異世界の言葉が壊れている ~女子高生ミサは、失われた世界の常識を取り戻す~  作者: 伝説の男前


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三日目の帳簿

# 第十九話 三日目の帳簿


午前。王宮東翼の書庫。


ミサは膝の上に羊皮紙の束を三枚並べ、筆を握っている。インク壺の蓋が開いたまま、乾きかけている。指先でなぞって溶かす動作を、もう一度繰り返した。


目の前には、南区の鉄工所一家の支出帳簿が広がっている。


神殿の治癒院への「経過観察料」。四ヶ月で三回。一回あたり銀貨二枚。合計六枚。


加護の推薦状取得に伴う貴族への寄進。二回。一回あたり金貨一枚。合計二枚。


炉の煤払い。本来なら月一回。今月は未実施。前月も未実施。三ヶ月前——娘が治癒院に入院した月——から、一度もされていない。


数字は並んでいるだけだ。感情はない。嘘をついていない。


窓の外から、塔の光が斜めに差し込んでいる。青白く。規則正しく。心拍のように。


ミサは目を閉じ、数える。


一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。確かに。消えない。五拍。六拍。七拍。八拍。


昨日もそうだった。四拍目だけ。一箇所。


彼女は羊皮紙に筆を走らせた。大きく、はっきりと。


『治す=完了(神殿)/再診を要する(患者の身体)』


一行目の下に、二行目を追加する。


『加護=神の選択(教義)/寄進額と人脈(実務)』


三行目。筆先が止まる。


『魔法=コスト以上の何か(未確認)』


「何か」の文字の上に、指で凹みをつける。消えない。羊皮紙に刻めば、消えない。


*


扉をノックする音がした。三回。一定の間隔で。


「バルトか。入って」


宮廷書記官が書庫に入ってきた。灰色の長衣。胸元の小さな紋章。眼鏡の奥から、羊皮紙の束を一瞥する。表情は変わらない。


「殿下より命じられ、帳簿の確認に来た。質問があれば、その都度尋ねよ」


ミサは筆を置き、最も上の羊皮紙——支出帳簿のコピー——をバルトの方向に滑らせた。


「四ヶ月で三回、経過観察。つまり、治したのに、まだ終わってない」


声は落ち着いている。断定ではないが、「多分」もない。「気がする」もない。事実を並べているだけだ。


バルトは帳簿を見た。数秒。それから答えた。


「定義上は完了している」


即答だった。迷いがない。事実を伝えているだけだ。


「治癒院の記録では、第三日に創部閉鎖、疼痛閾値以下と記載されている。治療行為としては終了している」


「患者の身体は?」


バルトは眼鏡の奥からミサを見た。


「……後遺の範囲だ」


一拍の沈黙。


「つまり、治したのに、まだ終わってない」ミサが繰り返した。「同じことを言ってる。定義が違う」


バルトは何も言わなかった。帳簿の数字をもう一度見ている。銀貨二枚。三回。六枚。加護の寄進、金貨一枚。二回。二枚。合計八枚。炉の煤払い、月一回——実施なし。三ヶ月。


「……確認した」バルトが言った。「記録は正確だ。数字に誤りはない」


「分かってる」ミサはうなずいた。「数字は嘘をついてない。定義が嘘をつけてる」


バルトは帳簿を閉じ、羊皮紙の束から自分の巻物を取り出した。書き込みがある。事務的だ。感情の色がほとんどない。


「加護の推薦状について、補足しておく」バルトが言った。「神殿の記録では、『神の意志による選択』と記載されている。実務上は——」


「寄進額と人脈で決まる」ミサが切り込んだ。「昨日、神殿の記録室で見た。推薦状の発行順が、貴族の寄進リストと完全に一致してる」


バルトはうなずいた。


「それが世の常です」


昨日と同じ言葉だ。けれど、今日は違う。昨日は「説明」だった。今日は「確認」だ。数字の上に置かれた事務的確認。同じ事務的だが、ミサの質問に「数字」で答えている。


ミサは羊皮紙に三行目を指した。「何か」の上の凹みをなぞる。


「この三行目が、埋まってない。今日も埋まらないかもしれない。でも、一と二は、もう消えない」


バルトはうなずき、書庫を出た。靴の音が廊下に消える。一定の間隔で。規則正しい。塔のリズムと同じだ。


*


午後を少し回った頃、扉が開いた。護衛が二人。その奥に、エレノア・アルヴェイン。


金髪の髪が、午後の光を受けて淡く浮かんでいる。表情は変わらない。けれど、指先が動いていない。昨日まで、羊皮紙の縁をなぞっていたあの三回——今日は、ない。代わりに、肩が少しだけ落ちている。


「ミサ」


王女は机の向かいに座った。椅子を引きずる音が、石造りの部屋に小さく響く。手には封筒——羊皮紙ではなく、この世界では珍しい薄い布の封筒——がある。開けずに置いた。


「貴族院から書簡が来た」エレノアは言った。「異邦人の調査範囲について、問うている」


ミサは筆を止めた。


「一週間は過ぎた」王女の声は落ち着いている。怒りはない。悲しみもない。確認だ。「留まる理由は?」


ミサは羊皮紙の束を見せた。三枚。上から順に。


「理由は、まだ三行目にあります」


一拍。


エレノアは封筒——貴族院の書簡——をもう一度見た。開けなかった。けれど、指先が封蝋の上で止まっている。動いていない。


「……分かった」王女は言った。「だが、我々も、永遠にお前をここに置けるわけではない。今日中に南区へ行くなら、護衛を二人付ける」


「うん」


「午後のうちに」


「うん」


エレノアは立ち上がった。扉に向かって一歩。そこで振り返った。


「三行目。何が入るのか」


問いだった。けれど、怒りではない。探しているのだ。答えを、まだ探している。昨日の「だが」の続きを、今日は別の形で出してきた。


「まだ分からない」ミサは答えた。「でも、埋める。この週中に」


エレノアは何も言わなかった。扉を開け、護衛とともに廊下へ消えた。靴の音。一定の間隔で。規則正しい。


窓の外では、塔の光が明滅している。心拍のように。


*


午後二時を過ぎた頃、南区の鉄工所。


馬車は使わなかった。歩いた。護衛二人が前後に付き、石畳の道を歩く。人々が鍋に火を焚いている。煙突から黒い煙。誰かが神殿の方へ歩いていく。誰も「魔法で」とは言わない。


鉄工所の扉は木だ。錆びた鉄の蝶番が、開くたびにきしむ。中に足を踏み入れると、炉の熱気が壁にこもっている。けれど、炉自体は冷たい。灰が積もっている。三ヶ月分の煤が、内壁に層をなしている。


主人——ハンマー——は二階から降りてきた。四十代後半。腕が太い。手のひらが荒れている。指先が鉄の粒で黒く染まっている。娘の病室が二階にあると、護衛から事前に聞いていた。階段の上で、一瞬だけ足を止めた。


「……あの」ハンマーは言った。「王宮の方か」


声は低いが、荒くない。驚きもない。慣れているのだ。上からのものが来ることに。


「南区の鉄工所、ハンマー家。帳簿を見せてほしいと——」ミサが始めた。


「分かってる」


即答だった。迷いがない。


ハンマーは炉の前に座り、膝の上に両手を置いた。指先で灰を払う。一度。二度。三度。やめる。


ミサは羊皮紙を広げた。帳簿のコピー。数字が並んでいる。銀貨二枚。三回。金貨一枚。二回。炉の煤払い——未実施、三ヶ月。


ハンマーはそれを一通り見た。数秒。それから言った。


「炉が冷える前に、娘の薬が三回目に来た」


声は平たい。感情がない。事実を並べているだけだ。ミサの数値と、同じ構造で語っている。


「選べなかった」


一拍の沈黙。炉の灰が、風に揺れて少し舞う。


ミサは何も言わなかった。羊皮紙に筆を走らせた。大きく、はっきりと。


『治す=費用を転嫁する(この世界)/傷が消える(本来)』


ハンマーはその行を見て、何も言わなかった。代わりに、炉の灰をもう一度払った。四度目。五度目。やめる。


「三ヶ月、炉が冷えてる」ハンマーは続けた。「鉄が張る。冬に備えるはずだった。……来月も、たぶん冷えたままになる」


ミサはうなずいた。


「分かった。ありがとう」


ハンマーは立ち上がった。二階の階段を上がる足音が、三階——いや、この家には二階しかない——で止まる。娘の病室がある方だ。数秒。それから、降りてくる。何も言わない。ただ、炉の前に座る場所から少しだけ離れ、壁に背中を預けた。


沈黙が落ちた。長い。灰の粒が、炉の縁から床に落ちていく音だけが聞こえる。


ミサは筆を置いた。羊皮紙の上で、三行目の「何か」を見つめる。凹みが残っている。消えない。


*


帰り道。護衛の一人が塔の方を指した。青白い光が、遠くで明滅している。心拍のように。規則正しい。


ミサは指で数えた。


一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。確かに。消えない。五拍。六拍——半拍の遅れ。確かに。消えない。七拍。八拍。


昨日は、四拍目だけだった。一箇所。


今日は、六拍目にもある。二箇所。


ミサは筆を止めた。羊皮紙を閉じた。指先が、少しだけ震えている。けれど、「気がする」ではない。「多分」でもない。確認した。数えた。二回。三回。同じ結果。


二箇所。


*


夜。王宮東翼。ミサの部屋。


窓の外では、塔の光が明滅している。青白く。規則正しく。心拍のように。


ミサは羊皮紙を机に固定し、筆ではなく指で作業していた。四拍目の半拍——凹みをつけた。六拍目の半拍——もう一度、凹みをつけた。二箇所。消えない。指の圧力で押し込んである。インクではない。肉の形が、羊皮紙の繊維に残っている。


窓の外では、塔の光が明滅している。一拍。二拍。三拍——四拍。半拍。五拍。六拍——半拍。七拍。規則正しい。けれど、二箇所。消えない。


扉をノックする音がした。三回。一定の間隔で。


「どうぞ」


エレノアが部屋に入ってきた。護衛がいない。一人だ。表情は変わらない。けれど、指先が動いていない。昨日までなぞっていた羊皮紙の縁——今日は、ない。代わりに、両手が膝の上で静かに置かれている。


王女はミサの机を横に見た。羊皮紙の上の二つの凹み。四拍目。六拍目。指の形が、繊維に残っている。


「……二箇所か」


声は低い。断定ではない。確認だ。


ミサはうなずいた。「昨日は一箇所だった。今日は二箇所。気のせいじゃない。数えた。三回」


エレノアは何も言わなかった。窓の外——塔の光——を向いている。心拍のように明滅している。四拍目、半拍。六拍目、半拍。確かに。消えない。


一拍の沈黙。二拍。三拍。


「ミサ」エレノアが言った。「貴族院は、お前を『異邦人の学者』として再分類する案を出している」


声に感情はない。事実を伝えているだけだ。バルトと同じ構造で語っている。けれど、内容は違う。これは制度だ。枠組みだ。ミサの調査に、境界線が引かれようとしている。


「学者なら、調査範囲に制限がある」王女は続けた。「南区の帳簿は見られるかもしれないが、神殿の記録室は——。塔の内部は——」


言葉が切れた。けれど、「だが」ではない。今日は、別の形だ。事実の列挙。制度の枠。数字の上に置かれた線。


ミサはうなずいた。


「分かってる」


声に、先ほどの硬さがない。けれど、柔らかさも少ない。正確だ。


「だから三行目を、この週中に埋める」


エレノアは何も言わなかった。窓の外を向いたまま、塔の光を見ている。心拍のように。規則正しい。けれど、四拍目——半拍。六拍目——半拍。二箇所。消えない。


ミサも見た。一拍。二拍。三拍——四拍。半拍。五拍。六拍——半拍。七拍。八拍。規則正しい。けれど、二箇所。消えない。


羊皮紙の上で、指の凹みが残っている。インクではない。肉の形が、繊維に残っている。消えない。


スマートフォンは枕元に置かれている。冷たい。画面の隅——左下、フレームとガラスの境目——に、小さな黒い点がある。昨日からあるものだ。今日も、光を帯びていない。ただの黒い点だ。


ミサは筆を拾い直した。インクが少し固まっている。指先でなぞって溶かす。三行目の「何か」の上を、もう一度なぞる。凹みが深くなる。消えない。


窓の外では、塔の光が明滅している。心拍のように。止まる気配はない。


一拍。二拍。三拍——四拍。半拍。確かに。消えない。五拍。六拍——半拍。確かに。消えない。七拍。八拍。


規則正しい。けれど、二箇所。


消えない。

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